novel

「一人ぼっちの新人戦・前編」 (作・はなぶさえいいち)
 

第1章

 「よぉ、巴」
 火山は、前を走っている一群の先頭にいる男に声をかけた。
 「火山さん!」
 その男―巴男吾は、彼に気付いて、足を止めた。柔道着の彼の身体からは、霞のように湯気が立っていた。
 「どしたんですか、火山さん?操と一緒に」
 火山の横で、円谷操が小さく手を左右に振った。今は彼女も火山率いる空手部にあって、1年生ながらレギュラー選手に抜擢されるほどの強者だった。
 「主将!そんなとこで立ち止まってどしたんだぁ?」
 男吾の後ろで、鬼塚がその場で駆け足を続けながら怒鳴った。さらにその後ろに何十人もの柔道部員が控えている。 シロトカゲ――倉田の陰謀が敗れ、旧柔道部は即日解散、新柔道部に吸収された。何人かの退部者はあったものの、新聞部の記事のせいか新たな部員が急増し、その数は総勢70人を越している。新柔道部は男吾を主将に戴き、新しい出発を始めていた。
 「悪いな、鬼塚さん」
 男吾は鬼塚に言った。
 「俺は少し、火山さんと話してくからさ、先にランニングしててくれ。すぐに追いつくよ」
 「本当かぁ?なまけるんじゃねーの?主将だからって、サボりは厳禁だかんな」
 鬼塚は笑って茶々を入れる。
 「うっせぇ!俺の足は特別製だ、すぐに追いつかぁ!分かったら、さっさと行く!」
 「うおおっす!」
 全員が掛け声をあげ、笑いながら男吾の横を駈け抜けていった。その中に早乙女も河内もいる。みんな楽しそうだった。
 三人は遠くに走り去っていく彼らを眺めていた。男吾は改めて火山に質問した。
 「もうすぐ空手部の地区大会があるだろう?そいつの内容を先生から説明を受けていたんだ。で、こいつは」 と、火山は操を指差して、苦笑した。
 「どうしてもそれに同伴したいって無理いって、ついてきたわけだ。やる気満々はいいんだがな」
 「そゆこと」
 操はちょっと悪戯っぽく片目をウインクした。
 「ところで、男吾。あんたントコも来週、地区大会があるんでしょ?」
 「おお、だからこうやって張り切ってがんばってんじゃねぇか!」
 男吾は鼻息荒く言った。
 空手部もそうだが、柔道部も新年度早々、五月に地区大会が行われる。一学期だからまだ三年生も引退していない。よって歴年の強者が続々と現れる。男吾にとって、強力な選手との試合は願ってもないチャンスだった。 大文字中学の柔道部は、この五年間、地区大会で連続優勝記録を更新していた。その快挙を継続する責任と、強者と対峙する喜びで男吾の体には力が漲っている。今年度は一年生が主将という前代未聞の状況の中で、他の中学からの謗りを受けず立派にどう試合を挑むのか、そのことを男吾は常に考えていた。
 「今回はぜってぇ負けられないんだ。大文字は六連覇を成し遂げる。主将としての俺の使命だかんな!」
 「カッコいいじゃん、男吾!」
 「――」
 火山は二人を少し苦々しい表情で見つめていた。そしてはしゃぐ男吾に向かって、
 「なぁ、巴よ。…まぁ、部の六連覇も結構なことだと俺も思うが、ひとつ聞いていいか」
 「へ?」
男吾は妙に真面目な火山の物言いに戸惑った。火山は真っ直ぐ彼の顔を見ていた。
 「お前は、どうして柔道をしているんだ?」
 「どうしてって…」
火山の質問の意図がつかめずに、男吾は思った通りに返事をした。
 「強くなりたいから」
 「そいで強くなって、六連覇か?」
 「それがいけないんすか?」
何か絡むような火山の言葉に、男吾は意地になっていた。まあまあ、と火山は男吾をなだめる。
 「そう怒るな。俺の言い方が気に障ったかもしれん。だがな…」
火山は続けた。
 「ただ闇雲に勝てば強くなるってわけじゃないんだぜ。その逆もあるってことを忘れるな。―俺には、今のお前がやたらに勝ちにこだわっているように見えるんだよ。確かにいきなり主将に抜擢されて張り切るのは分かる。その責任がとても重大なことぐらい、主将の俺にも身にしみて理解できるさ。だが、そいつに飲み込まれたら、お終いなんだ。それを先輩として、経験者として一言言いたくてな」
 男吾にも火山の言う意味はよく分かっていた。今の自分の気持ちが少し焦りに走っていることを薄々感じてはいた。火山の箴言が男吾を思っての言葉であることも充分理解できた。分かってはいる、がしかし――
 「それとな、巴。お前の部には今、何人所属してる?」
 「え…と、俺入れて72人、だったけかな?」
 「主将が全体の把握もできないでどうする!…逆に、退部した奴もいるな?その人数と名前は?」
 「そんなの覚えてないっすよ。去る者は追わず、ってね」
 「のんきなこと言ってる場合か!」
火山は一喝した。唇を噛んで苦い顔をして、男吾に命令した。
 「近いうちに調べておけ。それも主将の役割だぞ。…やっておかないと大変なことになるかも知れんからな」
 「…どういうことっすか?」
 「やぁ、火山さん」
 男吾の問いは、一人の男の声でかき消された。声のする方角には、にこやかに微笑む男が立っている。彼は小さく首を動かした。
 「よぉ!」火山は彼の姿に表情を緩め、手を挙げて挨拶を返す。どうやら二人は既知の間柄のようだった。改めて男吾はその男を観察した。
 不思議な笑顔を持つ男だった。爽やか…ではない。穏やかな、木々の間に映える柔らかい光を連想させる微笑みだった。「野蛮人」と称されがちな大文字中学の生徒には、なかなか見つからないタイプと言えた。その黒髪は自然に短く切り揃えられ、清潔感が身体中から漂っている。やや痩せ気味の体型が学生服に嫌みなくフィットして、体から暴力性が微塵も感じられない。優しい好青年といったいでたちだった。
ただ一点、そんな彼の雰囲気にそぐわぬ部分があった―両手がいつもズボンのポケットの中に隠されていること。
 これが男吾と、水無月馨との出会いだった。

第2章

 「火山さん、久しぶりですね」
 そう言って、水無月は火山の前でペコリと頭を下げた。「おいおい、待てよ。水無月」
火山は照れて頭を掻いた。
 「俺達、同期だろうが。丁寧すぎるのも妙なもんだぜ」
 「でも、今の僕にはこういう言い方のほうが合ってるんですよ」
水無月は悪びれもせず、そう答えた。そこに皮肉や韜晦はなく、ごく自然に出た言葉のようだった。
 「あぁ、この際だ。紹介しとこうか」
 隣で水無月をじっと観察している二人に気づいて、火山は男吾と操の肩に手を置き、水無月の前に差し出した。
 「こいつは俺の後輩で、巴男吾だ。で、こっちは円谷操。知ってるだろ?柔道部を潰してシロトカゲを追い出した事件。その張本人がこいつらさ」
 「よろしくお願いしまっす、巴男吾です!」「同じく、円谷操です!よろしく!」
 「水無月馨です。よろしく」
水無月は礼儀正しく後輩達に挨拶を返した。そして、改めて二人の顔をまじまじと見直して、
 「へぇ、そうか、君達があの…」
水無月は面白そうに、その表情を和らげた。
 「君が、巴君…巴君、でいいね?聞いてるよ、君の噂は。すごく強いって話だぜ。鬼塚の地獄落しを返したんだって?円谷君のことも耳にしている。一年生でもう、レギュラーなんだろ。やるもんだなぁ」
 「いやぁ…まぁ、まぐれ、みたいなもんです」
 男吾は水無月の誉め言葉に顔を赤くした。操も同様だった。水無月の口調には、揶揄も追従もない、純粋な賞賛だけがあった。
 「話の途中で悪いが、ちょっといいか?水無月…」
 三人の会話に、火山が唐突に割って入ってきた。強引だったが、火山の顔には静かだが切実な意志がこもっていて、三人はそのまま黙って彼に話を続けさせた。
 「何度も言ってることだが―水無月、もう一度空手部に戻ってくる気はないか?お前にその意志があれば、部は諸手を上げて―」
 「火山さん、本当に済まない」
水無月は手を挙げ、火山の言葉を制した。思いもよらず、キッパリとした強い口調だった。
 「僕の意志は変わらない。空手部に戻る気もないよ」
 「どうしてもか?」
 「ええ」
 「やっぱり、そうか。しょうがないな…」
火山はガックリと肩を落として、うなだれた。どうやら、既に何度も火山と水無月は同じやり取りを繰り返しているらしいと、男吾は察していた。
 「じゃ、三人とも。僕は失礼するよ。やることがあるからね」
水無月はちょっと肩をすくめて、歩き出した。そして、ふと思い出したように、顔をあげ、男吾の方を向いた。
 「そう言えば、巴君。君が柔道部主将だったね」
 「え?えぇ、そうですけど」
水無月の不意の問いに戸惑いながらも、男吾は答えた。水無月はちらと難しい表情を作った。
 「…少し身辺に気をつけたほうがいいよ。入ってくる人間より、出ていった人間の動きは分かりづらいものだ」
 「へ?」
 謎のような言葉を残して、水無月は三人の後ろを歩き去っていった。依然、彼の両手はポケットの中にあることも男吾は気づいていた。
 やがて火山は大きくため息をつくと、二人のことを忘れたかのように一人で歩き出した。慌てて男吾と操はその後を追った。がっくりと俯いていたままの火山に、操が声をかけた。 
 「火山先輩、あの人、元空手部だったんですか?」
 「ああ…」
火山はポツポツと受け答えした。
 「一年生のときからの同期だったよ。だが、二年進級前に退部、今じゃミナヅキ部をやってる」
 「ミナヅキブ?」
聞き慣れない言葉に、男吾はオウム返しに聞いた。
 「なんですか、それ」
 「そういえば…」操が思い出して額に手をやった。
 「あたし、聞いたことある。ミナヅキ部、“水無月部”よね?たった一人で構成された…」
 「そう、水無月部だ。そしてそのたった一人の部員があいつ、水無月馨なんだよ」
口を斜めに歪めて火山が言った。男吾もそこかしこで聞いた噂を思い出していた。
 ミナヅキブ。水無月部。
 大文字中学では、原則として全生徒は何らかの部に所属しなくてはならない。運動部であっても文化部であっても構わない。それが大文字中学の学則なのだ。にも関わらず、たった一人、部活動を行わない者がいた。その男が水無月馨だった。彼は一年前、所属していた部を退部、あらゆる部活動に背を向け単独で行動している。行動といっても一人勝手にランニングしたり、ゴミ掃除したりするだけらしい。彼は半ば冗談でこれを自分だけの部、「水無月部」と名づけた。しかも驚いたことに、学園側はこれを容認している。
 「どうしてそんな部が認められてるんすか?」
 「まぁ、ちょっとした騒動があってな…それ以来、水無月は部活動を拒否している。それに何といっても…」  
そう語る時、なぜか火山の表情に痛ましげな翳が映るのを、男吾は妙な気持ちでいぶかしんだ。
 「あいつが強いからだ。とてつもなく強い。俺でも勝てるかどうか正直言って分からん。あいつの“才能”は相当なもんだからな。だから奴を欲しがっている者も多いが、嫌っている奴はもっと多い。学園側はそれを恐れているし、また利用している。どちらにしても揉め事を起こすよりは、水無月の言い分を通してしまおうと―まぁ、こういうわけだ」
 「へぇ…」
男吾と操は、自分の後ろに消えていくその男の後ろ姿を見直して、互いに顔を見合わせた。すばやく火山は二人の態度を察して、やんわりと尋ねた。
 「お前ら、水無月と一戦交えたいと、瞬間的に思っただろ?」
二人は素直に同時に首を縦に振った。やれやれ、しょうがない奴らだな、と火山は苦笑した。
 「でもな、お前ら、水無月に手ぇ出すんじゃないぞ。まず第一に、今のお前らじゃ100パーセント勝てん。あいつの“才能”に勝てる奴はそうそういるもんじゃないからな。
第二にその“才能“のために、あいつは本当は闘いたくないと思ってるんだ。いい奴なんだよ、あいつは。そんな奴とやりあってもお互い、いい気分にはならない。分かるな?」
 「ふぅん…そうスね、分かったですよ、火山さん」
男吾は火山の意を汲んで――と言うより、何か彼の話に引っかかるものを読み取って、そう了解した。しかしさっきから度々出てくる言葉…水無月さんの「才能」って何だ?火山に問い質したかったが、それは止めた。いつか分かる時もくるだろう。ただ、男吾の隣の操がどう考えているかが、それが気になっていた。

第3章

 昼食の載ったトレイをテーブルに静かに置いて、操が男吾の横の椅子を手前に引いた。
 「ここ、いい?男吾」
男吾は一杯になった口をもごもごと動かして、首を縦に振る。いいも悪いもない、既に操は椅子に腰掛けていた。食物を嚥下し終わったときには、「いっただっきまーす」と操は箸を手に取り、食べ始めている。
 「最近じゃ珍しいな、操。お前が俺のところにくるなんて」
男吾は無作法にも、箸で操を指して聞いた。
ここの所、彼女は休み時間食事時間問わず、大会に向けての練習と部活仲間との技術演習に忙殺されていたのだった。それが今日に限っては、のんびりと食事を楽しんでいる。もちろん、操の気まぐれとは、はなから男吾は思っていなかった。
 「で、何か俺に用か、操」
 「あ、やっぱり分かる?」
 「分かるよ、お前の考えてることぐらい。手短に話せよ、俺も忙しいんだから」
そう言って、男吾は丼飯をかっ込んだ。操はニヤニヤ笑って、おかずのコロッケを頬張る男吾を見ていたが、ひょいと身を乗り出し、小さい声で男吾の耳元に囁いた。
 「それで、水無月先輩のこと、どこまで分かったの?」
男吾は一瞬咳き込み、戻しかけて大慌てで胸を叩き、落ち着かせる。ものも言わずに番茶を一気に飲み干してようやく息をついた。
 「な、何言ってんだ、お前?俺がそんなこと」
 「してなかったって言うの?」
彼女の一言で、男吾は沈黙した。そして沢庵を一切れ口に投げ入れて、バリバリと音を立てた。
 「まったく、勘のいい奴だな。よく分かったもんだ」
 「あんたのやりそうなことぐらい、あたしにはお見通しよ。で、どうなの?」
 「うん、それがどうもな…」
男吾は少しくちごもった。男吾が話の合間合間に飯を片づけながら語る話は―
 「どうも火山さんのいう水無月さんのイメージって、違うんだよな…」
水無月と出会った日から、男吾は何かこの一人部活の男に興味が引かれ、彼を特に注意して観察していた。もちろん誰かから情報を探るという方法は使用しない。それは何かと先入観の混じったいい加減なものになるだろうし、万一火山にばれた時何を言われるか分かったものではないからだ。
 となれば、直接彼の動向を確かめるしか方法はない。時に休み時間中に、あるいは部活動中に垣間見る水無月の行動を、注意深く観察していたのだった。
 「それでも水無月先輩はシッポを出さなかったって訳?」
 「シッポってお前、何も水無月さん、悪いことしてるんじゃなくて」
 「いいから、それで?」
 ある時、部活連中と学園回りの丘をランニングしている男吾は、丘の横腹の草の上で昼寝を―いや、部活動か―している水無月を発見した。相変わらず何をしてるのか分からない人だなと男吾が苦笑いしていた時、それは起こったのだ。 キン、という高い音がした。それがバットがボールを叩いた音だと男吾が気づいた時には、ボールは水無月の体に当たって跳ね返っていた。水無月の身体が反動でくの字に曲がり、すぐに元に戻るのが目に映った。野球部の人間が血相を変えて、水無月の元に殺到したときも、男吾はただ成り行きを見守っているしかなかった。
 水無月は緩慢に身を起こし、横に転がっている軟球を軽く手につかんだ。頭を下げて繰り返し謝る野球部員に、手を横に振ってそれを渡した。大丈夫だから、という彼の声が遠くから小さく聞こえていた。僕は生まれつき頑丈な体だから、注意してなかった僕も悪いのさ、と水無月は逆に彼らを安心させている。水無月のことを知らない二年生らは彼の言葉を単純に喜んでいるらしいが、三年生はそんな水無月を胡散臭そうに遠巻きにして眺めていた―
 「俺が思うにさ」と、男吾は最後のコロッケを口に入れてからモシャモシャと言葉を続けた。
 運動神経のある奴なら、寝てても飛んでくるボールくらい簡単に避けるもんだぜ。それを直撃食らうなんて、運動神経キレてるとしか思えないよ。
 「それに、もうひとつあんだよ」
これは俺もその場にいて直接関わってることなんだけどさ、と前置きして、男吾は話し出した――
 「よぉ、兄ちゃん。ちょいと先輩にカンパしてくれないかな?」
 チンピラ学生のその居丈高な恫喝に、その一年生は助けを声にも出せずに震えていた。周りの人間も自分にふられるのを恐れて手出ししようとしなかった。更に調子に乗って、二人組は後輩の襟をグッとつかんで持ち上げた。
 「おいおい、二年の先輩がこうして話しかけてるんだぜ。返事ぐらいできねぇのかよ。それとも柔道部員はお強くて先輩なんか屁でもねぇ、っていいたいのか、こら?」
チンピラは一年生が脇に抱えている柔道着をチラリと見て言った。そこに男吾が通りかかったのだ。
乱暴で有名な大文字中学でよく見かける光景だった。中途半端な不良少年二人組が名を上げられる場所と思い込んで入学したというわけだろう。いずれ凄まじい力の差を思い知り、どこかに逃げ帰るか、コソコソと卒業まで待つかする運命なのだが…
“ん?あの二人組…”
男吾はチンピラを見て、小さく眉間にしわを寄せた。
“あまり見たことのない顔だな。あんな奴、大文字にいたっけか?”
しかしどうあれ、チンピラの思い通りさせるわけにはいかないし、被害者が同じ柔道部員であれば尚更だった。男吾が走り出したその時――
 「やめてくれないかなぁ、二人とも」
調子の狂うような穏やかな声で二人の前に立ちはだかったのは、水無月だった。相変わらずニコニコと微笑みを顔に浮かべていた。
 「なんだぁ、こいつ…」
 「てめぇ、このガキの知り合いかよ」
突如現れた闖入者に、二人は少々戸惑ったようだ。そして口々に喚きたてた。
 「いや、そうじゃないけど」
困ったように、水無月はかぶりを振った。
 「でも、タカリはよくないな。君ら、先輩がどうのって言ってたよね?なら、ここは三年生の顔を立てて、止しにしといてもらえないか」
二人組は互いに顔を見合わせていたが、水無月の温厚な抗議を見てかさにかかったらしい。
 「んだと…うるせぇ!三年だからって、えばんじゃねぇぞ」
 「いばったつもりはないよ。ところで、君たち二人とも―」
水無月は笑顔を引っ込めて、一瞬矢のように目を細めて二人を睨み付けた。少なくとも男吾にはそう見えた。
 「君達、あんまり見ない顔だね、大文字の制服は着てるけど。―本当に、うちの生徒なのかな…?」
 「…!」
二人は水無月の言葉にたじろいだ。そして無言で互いに頷いた。
 「やっちまえ!!」
二人は水無月に飛びかかっていった――
 「で、水無月先輩は、そいつらをブッ倒したわけね?」
 「いや」
操の言葉を、男吾は即座に否定した。
 「走って逃げ出した」
 「えぇ?」
 「だから、飛びかかってきた相手からひょいと身を躱して一目散に走り出したんだよ。チンピラも頭に血がのぼったんだろうな、水無月さん追いかけていって、それでお終いさ」
後には、自分が助かったことも忘れて立ちすくむ一年生と、事が終わって安心のため息をつく見物人、そしてあまりな展開に呆然と三人の走り去った後を眺める男吾が残されたのだった。
 男吾は話し終わって、テーブルの上で頬杖をついた。「水無月さんが本当に強いかどうかは依然分からねぇ、ってことさ」
操はしばらく腕を組んで考えた後、自分の思いつきを言った。
 「弱そうに見せかけてるってのは、なし?」
 「チンピラの一件だけじゃ、なんとも言えない。しかし、ボールの直撃の話だけでもあんまり強いとも思えないけどな」
 男吾は、火山から水無月を紹介されてから一度だけ、直接彼と会話をしたことがある。 その時、彼は「部活動」の真っ最中だった 水無月は、片手にビニール袋を持ち、軍手をはめて道の転がっている空缶を拾い上げ、それを袋の中に放り込んだ。缶同士がぶつかる、乾いた音がした。拾っても拾っても空缶がなくなることはない。しかし飽くことなく、水無月は同じ行為を繰り返していた。
男吾は水無月の前に立った。水無月も彼に気づき、顔を上げて微笑んだ。
 「やぁ、巴君か」
 「こんちは、水無月さん。…えと、“部活中”ですか」
 「ああ」
水無月は頷いた。男吾は、水無月の片手に持っているビニールを覗き込む。中には無数の汚れた空缶で一杯だった。
 「空缶拾い、すか」
 「ゴミ掃除さ」
 「ゴミ掃除?」
 「ああ」
袋をちょっと掲げて、水無月は苦笑した。「水無月部の主な部活動だよ。ゴミはいくら拾っても次から次へと涌いて出る。それでもうちの生徒が捨てるだけなら、まだ腹も立たないよ。しかしわざわざ大文字に来て捨ててく奴がいる。困ったもんさ」
 「他の生徒?」
 「まぁ、そんなのばかりじゃないけどね」
再び水無月は腰を屈めて、缶を拾い始めた。
 「昼間の部活動は大体こればっかりだよ。夜にはまた別の部活もあるしね」
 「ふぅん…」
水無月は男吾をよそに、また空缶拾いを続けた…
 「とにかく、俺はもう気にしないことにしたよ」
男吾はあっさり結論をつけた。操は目を閉じて何か考えていた。
 「どういう経緯で水無月さんがミナヅキ部を作ったのか、何が過去にあったのかはどうでもいいことさ。今の俺はそんな他人のことより、来週の地区大会のほうが大切だかんな。くだらねぇ詮索は終わりにするよ。操、お前も気にすんな」
そう言って、男吾は考え込んでいる操に笑いかけた。
あるいは、と男吾は推測していた。あの話自身、火山さんが友人として、水無月さんのために流した噂かも知れない。「一年前の騒動」自体も火山が真相を話してくれない以上、解明の糸口はなかった。いずれにせよ、温厚な水無月さんがこの大文字中学で無事に生活をおくれるための方便だったとしたら。ありうる話だ。俺に真っ先に紹介したのも牽制みたいなものかもしれなかった。 男吾はそう判断した。
 「さぁて、行くか、操。早くしねぇと練習時間がなくなっちまうぜ」
昼食トレイを手に持って、男吾は立ち上がって操を促した。操も慌ててトレイをつかむ。
その時、不意に男吾は思い出したのだ。 手。
あの時、水無月は最後まで手を出さなかったのだ。ズボンのポケットから。 ボールが直撃した時も、チンピラに飛びつかれても尚。 それはどういう意味なのか。 だが、男吾はそれをすぐに忘れた。大会に向けての練習に頭が一杯だったからだ。

第4章

 「よし…じゃ、当日は七時に学校に集合する。そこから大会会場の西本町まで全員で向かって八時半着だ。いいな、巴?」
 「はい!」
吉村教師の説明に、男吾ははっきりと返事をした。
柔道部今年の顧問は、吉村である。まだ若くおっとりとして大人しいが、物事を責任持って対処する落ち着いた教師だった。体力が身上で段取りの苦手な若き主将のフォローにうってつけの顧問といえた。
 「後から部員全員を集めて、私からもう一度説明するが、この用紙にも一通りかいてある。みんなに配っておいてくれ」
吉村は印刷された説明用紙の束をドサリと机の上に置いた。部員全員分の七十枚だから、なかなかの量がある。
 「分かりましたぁ!では、巴男吾、部活に戻りまぁす!」 飛び出す男吾を「こらこら」と吉村は呼び止め、机を指差す。
 「紙、持ってけ」
 「失礼しやしたぁ!」
束を抱えて、再度男吾は職員室を出ていった。腕の荷物は重かったが、心は軽かった。
ついに地区大会を明後日に控えて、男吾は興奮していた。今年の強敵は、剣崎東中学だ。剣崎東中学は優勝こそ逃がしているものの、この十年、四強以下になったことがない伝統的な強者である。今年の剣崎東中は積年の怨みとばかりに壮絶な練習を続け、他校との練習試合での強さも半ば伝説的なものにまでなっていた。今年は大文字を倒して覇者になるのは間違いなく剣崎東中とすら噂されている。
男吾が興奮しているのはそればかりではなかった。 今日の午後から、道場に水無月馨が現れるらしい。
 「水無月先輩から、約束取りつけてきたよ」
ニヤッと笑って、操は男吾の前でVサインを出したのだ。
 「なんとか拝み倒して、やっとOKしてくれたのよ。水無月先輩、そうとう嫌がってたけどね」
 「よくやるよ、お前も」
男吾は操の強引さに呆れつつ、午後を楽しみにもしていた。火山さんの言う「水無月さんの才能」が何か、本当にそんなものがあるのかを男吾も知りたかったのだ。
 「やるぞ、やるぞ、やるぞぉ〜〜!!」
男吾は大声をあげて駆け出した。

 ――彼が道場の前に戻った時、そこは異様な雰囲気に包まれていた。
いつもなら、部員の組手をかける大声と、木板を激しく打つ音が聞こえてくるはずだった。地区大会の近づいた今、昼夜問わず聞こえるその音が一切しない。誰一人道場にいないような静けさだった。
そのかわり、道場の周りを数人の生徒が恐る恐る覗き込んでいるのが見えた。そして近くにいる者とヒソヒソと話していた。やがて生徒の一人が走り出した。校舎に向かっていた。
 「早くして!先生を呼んでくるのよ、保健の先生もね!」
走る生徒に後ろから声をかけているのは、同じ組の早瀬英子だった。 男吾は道場に起こった異変に気づいて、彼女の元に走った。
 「オデコ!」
 「巴君!」
男吾の姿を認めて、英子が血相を変えて彼の腕をつかんだ。顔が真っ青になっている。
 「どういうことよ、これ!一体何があったの?!」
 「どういうことって――俺は今の今まで顧問の吉村先生と一緒に――」
そこまで言いかけて、男吾は英子の手を振り切って、土足で道場に駆け込んだ。
 「…!!」
男吾は声もなく、立ちすくんだ。手に持っていた紙の束がバサリと床に落ちた。その一枚が風に翻って中に入り、ふわりと床に落ちる。紙は床にこぼれた血を吸って、大きな染みを作っていった。その先に――円谷操が床に崩れているのを男吾ははっきりと見た。
しかし男吾は操の元に走れなかった。彼女までの数メートルの間に、何人もの部員の体が横たわっていたからだった。
河内が腹ばいになって転がっていた。早乙女が体を折り曲げて倒れている。青木が片方の足を穴の空いた道場の壁に突っ込んだまま気絶していた。佐々木は土門の下敷きになってピクリとも動かない。そして、副将鬼塚は壁を背に当て軽く俯くように体を折り曲げている。
 動いているものは誰一人いなかった。何十人もの柔道部員の体が累々と横たわっているばかりだった。そしていくつもの血溜りが床に残されている。
凄まじい光景に呆然としていた男吾は我に返り、倒れている操の元に走った。部員達は男吾の足が自身の体を通り過ぎても、動かなかった。 やっと操の元に辿り着いた男吾は、操の体を抱きかかえて、大声で彼女の名を呼んだ。
 「操、みさおぉ!大丈夫か、しっかりしろ、おい!」
大丈夫でないことぐらい、男吾にも分かっていた。しかしそう呼ばずにはいられなかった。激しく殴打された彼女の口元から流れた血が既に乾きかけていた。
 「ダ、男吾…」
微かに操の意識が戻り、彼女はかすれた声を出した。赤く腫れた目蓋をわずかに開き、彼女の瞳が見えた。その目は聞こえてくる男吾の声のする所を一生懸命に探していた。
 「どしたんだ、一体何があったんだ!一体どうしたんだよ、これは?!」
すぐにでも彼女を保健室に連れて行くべきだった。そうすべきだったのだ。しかしそれを忘れてしまうほどに男吾は逆上していた。
 「ミナヅキ先輩を――」
 「何、何だって?!」
 「水無月先輩を止めて…」
 「水無月先輩が、どうしたって?!」
 「水無月先輩を止めないと、だめ…」
“水無月さんが、まさかこれを…?!” 男吾は改めて道場を見渡した。凄まじい戦闘の跡がそこにあった。そして水無月の姿はどこにもなかった。
 「…すごい、すごいわ――」
操はうわ言のように呟いた。いや、彼女の言葉はまさしくうわ言だった。ブツブツと小さく繰り返されるその言葉は、意味を成していなかった。男吾は耳を近づけ、聞き取ろうと努力した。
 「操!何言ってんだ?!」
もう操は男吾の声を聞いていなかった。その瞳は目の前の男吾の体を通り抜けて、別のものを見ようとしていた。操は傷だらけの顔でゆっくりと口元を動かして表情を作っていった。それは驚いたことに笑顔だった。操は笑っていた。
 「あたしが…」
操は放心した目で呟いた。
 「…もう一人、いる――」
それだけ言って、操は目を閉じた。全身の力が抜け、再び彼女の意識が途切れた。
 「おい、操!何だ、どういうことだ!」
男吾は操の身体をゆすろうとした。だが、それを制止する強い力が彼の腕をつかんだ。男吾が振り返った。後ろで彼の腕を握っているのは、保健の杉本先生だった。彼女は首を横に振った。
 「だめよ、巴君。怪我人に無理させちゃ…すぐ手当てするから」
杉本は男吾を放すと、「ちょっと手伝ってちょうだい」と、後ろに控えていた生徒らに呼びかけた。
男吾は一人、手当てを始める彼らを見ているでもなく、手伝うでもなく、倒れている部員達の姿を呆然といつまでも眺めていた。様々な思いが脈絡もなく、彼の脳裏を駆け巡っていた。友達の無残な姿、操の謎の言葉、明後日にひかえた地区大会、そして水無月の笑顔――
 この日、道場に出席していたのは、全部員72人中、71人。大会に向け、選手でないものも姿を見せていた。その場にいなかったのは男吾、ただ一人。
そして、倒された者の数は――71人。奇しくも現場を離れていた男吾を除いて、全ての部員が傷ついた。
 ここに大文字中学柔道部は全滅したのである。

(続く)