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第4章
「よし…じゃ、当日は七時に学校に集合する。そこから大会会場の西本町まで全員で向かって八時半着だ。いいな、巴?」
「はい!」
吉村教師の説明に、男吾ははっきりと返事をした。
柔道部今年の顧問は、吉村である。まだ若くおっとりとして大人しいが、物事を責任持って対処する落ち着いた教師だった。体力が身上で段取りの苦手な若き主将のフォローにうってつけの顧問といえた。
「後から部員全員を集めて、私からもう一度説明するが、この用紙にも一通りかいてある。みんなに配っておいてくれ」
吉村は印刷された説明用紙の束をドサリと机の上に置いた。部員全員分の七十枚だから、なかなかの量がある。
「分かりましたぁ!では、巴男吾、部活に戻りまぁす!」 飛び出す男吾を「こらこら」と吉村は呼び止め、机を指差す。
「紙、持ってけ」
「失礼しやしたぁ!」
束を抱えて、再度男吾は職員室を出ていった。腕の荷物は重かったが、心は軽かった。
ついに地区大会を明後日に控えて、男吾は興奮していた。今年の強敵は、剣崎東中学だ。剣崎東中学は優勝こそ逃がしているものの、この十年、四強以下になったことがない伝統的な強者である。今年の剣崎東中は積年の怨みとばかりに壮絶な練習を続け、他校との練習試合での強さも半ば伝説的なものにまでなっていた。今年は大文字を倒して覇者になるのは間違いなく剣崎東中とすら噂されている。
男吾が興奮しているのはそればかりではなかった。 今日の午後から、道場に水無月馨が現れるらしい。
「水無月先輩から、約束取りつけてきたよ」
ニヤッと笑って、操は男吾の前でVサインを出したのだ。
「なんとか拝み倒して、やっとOKしてくれたのよ。水無月先輩、そうとう嫌がってたけどね」
「よくやるよ、お前も」
男吾は操の強引さに呆れつつ、午後を楽しみにもしていた。火山さんの言う「水無月さんの才能」が何か、本当にそんなものがあるのかを男吾も知りたかったのだ。
「やるぞ、やるぞ、やるぞぉ〜〜!!」
男吾は大声をあげて駆け出した。
――彼が道場の前に戻った時、そこは異様な雰囲気に包まれていた。
いつもなら、部員の組手をかける大声と、木板を激しく打つ音が聞こえてくるはずだった。地区大会の近づいた今、昼夜問わず聞こえるその音が一切しない。誰一人道場にいないような静けさだった。
そのかわり、道場の周りを数人の生徒が恐る恐る覗き込んでいるのが見えた。そして近くにいる者とヒソヒソと話していた。やがて生徒の一人が走り出した。校舎に向かっていた。
「早くして!先生を呼んでくるのよ、保健の先生もね!」
走る生徒に後ろから声をかけているのは、同じ組の早瀬英子だった。 男吾は道場に起こった異変に気づいて、彼女の元に走った。
「オデコ!」
「巴君!」
男吾の姿を認めて、英子が血相を変えて彼の腕をつかんだ。顔が真っ青になっている。
「どういうことよ、これ!一体何があったの?!」
「どういうことって――俺は今の今まで顧問の吉村先生と一緒に――」
そこまで言いかけて、男吾は英子の手を振り切って、土足で道場に駆け込んだ。
「…!!」
男吾は声もなく、立ちすくんだ。手に持っていた紙の束がバサリと床に落ちた。その一枚が風に翻って中に入り、ふわりと床に落ちる。紙は床にこぼれた血を吸って、大きな染みを作っていった。その先に――円谷操が床に崩れているのを男吾ははっきりと見た。
しかし男吾は操の元に走れなかった。彼女までの数メートルの間に、何人もの部員の体が横たわっていたからだった。
河内が腹ばいになって転がっていた。早乙女が体を折り曲げて倒れている。青木が片方の足を穴の空いた道場の壁に突っ込んだまま気絶していた。佐々木は土門の下敷きになってピクリとも動かない。そして、副将鬼塚は壁を背に当て軽く俯くように体を折り曲げている。
動いているものは誰一人いなかった。何十人もの柔道部員の体が累々と横たわっているばかりだった。そしていくつもの血溜りが床に残されている。
凄まじい光景に呆然としていた男吾は我に返り、倒れている操の元に走った。部員達は男吾の足が自身の体を通り過ぎても、動かなかった。
やっと操の元に辿り着いた男吾は、操の体を抱きかかえて、大声で彼女の名を呼んだ。
「操、みさおぉ!大丈夫か、しっかりしろ、おい!」
大丈夫でないことぐらい、男吾にも分かっていた。しかしそう呼ばずにはいられなかった。激しく殴打された彼女の口元から流れた血が既に乾きかけていた。
「ダ、男吾…」
微かに操の意識が戻り、彼女はかすれた声を出した。赤く腫れた目蓋をわずかに開き、彼女の瞳が見えた。その目は聞こえてくる男吾の声のする所を一生懸命に探していた。
「どしたんだ、一体何があったんだ!一体どうしたんだよ、これは?!」
すぐにでも彼女を保健室に連れて行くべきだった。そうすべきだったのだ。しかしそれを忘れてしまうほどに男吾は逆上していた。
「ミナヅキ先輩を――」
「何、何だって?!」
「水無月先輩を止めて…」
「水無月先輩が、どうしたって?!」
「水無月先輩を止めないと、だめ…」
“水無月さんが、まさかこれを…?!” 男吾は改めて道場を見渡した。凄まじい戦闘の跡がそこにあった。そして水無月の姿はどこにもなかった。
「…すごい、すごいわ――」
操はうわ言のように呟いた。いや、彼女の言葉はまさしくうわ言だった。ブツブツと小さく繰り返されるその言葉は、意味を成していなかった。男吾は耳を近づけ、聞き取ろうと努力した。
「操!何言ってんだ?!」
もう操は男吾の声を聞いていなかった。その瞳は目の前の男吾の体を通り抜けて、別のものを見ようとしていた。操は傷だらけの顔でゆっくりと口元を動かして表情を作っていった。それは驚いたことに笑顔だった。操は笑っていた。
「あたしが…」
操は放心した目で呟いた。
「…もう一人、いる――」
それだけ言って、操は目を閉じた。全身の力が抜け、再び彼女の意識が途切れた。
「おい、操!何だ、どういうことだ!」
男吾は操の身体をゆすろうとした。だが、それを制止する強い力が彼の腕をつかんだ。男吾が振り返った。後ろで彼の腕を握っているのは、保健の杉本先生だった。彼女は首を横に振った。
「だめよ、巴君。怪我人に無理させちゃ…すぐ手当てするから」
杉本は男吾を放すと、「ちょっと手伝ってちょうだい」と、後ろに控えていた生徒らに呼びかけた。
男吾は一人、手当てを始める彼らを見ているでもなく、手伝うでもなく、倒れている部員達の姿を呆然といつまでも眺めていた。様々な思いが脈絡もなく、彼の脳裏を駆け巡っていた。友達の無残な姿、操の謎の言葉、明後日にひかえた地区大会、そして水無月の笑顔――
この日、道場に出席していたのは、全部員72人中、71人。大会に向け、選手でないものも姿を見せていた。その場にいなかったのは男吾、ただ一人。
そして、倒された者の数は――71人。奇しくも現場を離れていた男吾を除いて、全ての部員が傷ついた。
ここに大文字中学柔道部は全滅したのである。
(続く)
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