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エピローグ
「で、どうなったの?」
操が隣に歩いている男吾にその続きを促した。男吾は操と一緒に学校に向かう途中にあった。始業までにはまだ時間に余裕がある。男吾にしてみれば、まだ体が完全復帰していなかったし、ゆっくり寝てもいたかったが、またも男子寮に忍び込んだ操に事の結末を催促され、泡を食って寮を脱出したのだ。操の怪我は一週間で直り、今はケロリとしている。一方、男吾は今でも包帯を全身に巻いていた。男吾は話の先を話し始めた。
「最初は、どうにも苦戦したよ。何しろ自分と闘ってるんだ、タイミングもテクニックも何もかもが同じなんだよ。返し技も効かない。そんなことが三十分も続いたかな。そのまま終わらない試合になるかと思った」
「それで?」
「それから――少しずつ変わり始めた」
男吾は、思い出そうとして頭に手をやった。
「今でもよく分からないんだ。けど…使えるはずのない技が、体の中から不意に出てきたんだよ。自然に体が動いて何時の間にか技が決まる…そんな感じかな」
それは唐突に起こったのだ。
“え?”男吾は、呆然として、水無月が棒のように倒れるのを信じられない思いで見た。
“なんだ、俺?今何したんだ?”
自分の体がどう動いたのか覚えがなかった。確か――そう、確か水無月のアッパーをかわそうとして、身体を右に回転させて、それから、体を自然に落とした。同時にそのまま身体を逆反転させて真下から上に満身の力を込めて蹴りを入れて――
「そう、これが滝沢の“駒落し”だよ」
唇の血を手で拭って、水無月は破顔した。男吾はその伝説的な技の名を思い出した。
「滝沢副将の、あの“駒落し”…?」
先代空手部の副将、滝沢の「駒落し」。副将でありながら、主将以上の強さを誇り、部を全国大会に導いた彼の一撃必殺の技だった。
「この技を俺が」
「そうだ、巴君。君は361人と闘った。その結果が今現れようとしているんだ」
水無月は楽しくてならないようにしゃべった。
「長い戦いの末、君の体には無数の技が刻印されたんだ。それが徐々に解放されて君のものになろうとしている。これからがお楽しみだよ。君はもっともっと強くなろうとしているんだ――さぁ、続けよう、来いっ!」
それは不思議な闘いだった。
男吾が五日間の稽古で受けた数々の過去の技術が知らず知らずのうちに身体から甦ってくるのだ。相手の気配に反応して、思いもよらない動きを体が勝手に行っていた。もはや作戦もテクニックも必要なく、純粋な闘志だけで全身の筋肉が意志を持ち、自在に動かしていた。空間に身体が融合する不思議な快感だけがあった。
体は次々と勇者の技を発現していた。浦田の「逆回転投げ」で水無月を背面に投げ飛ばし、宗司の「水平断ち」が男吾の腹を切り裂いた。寺井の「鎌鼬」は、紅野の「斬手刀」に音を立てて交わった。
男吾の体の変化とともに、水無月もまた、同じように身体を変えていった。手抜きをしていたのではない。正確に「男吾」を反映するがゆえに、水無月は「男吾」として次第に強力になっていったのだ。
「それで、最後は?」
操がじれったそうに事の結末を知りたがった。
「最後は――それが一番覚えがないんだ」
男吾は包帯の巻かれた腕を組んで思い出そうと首をかしげた。が、無意味だったようだ。
「大体、あん時はもう、お互い相手の姿の確認も出来なかった状態だったしな」
幾度となく顔面を殴られた男吾の目蓋は腫れ上がり、瞳を覆い隠していた。額から幾条にも流れる血が左眼の視界を奪っていた。今の男吾には、何一つ見えなかった。相手の気配だけが感じられた。
恐らく水無月も同じ状態であることは間違いなかった。次々に出現する強力な技のしのぎを削り、急速にレベルアップを繰り返したこの戦闘は、彼ら二人の、生物として個体を維持する力を著しく奪っていた。
多分、次で決まると、男吾は予感した。次の一撃で勝敗は決する、そう直感した時、彼の体は動いたのだ。
男吾は眼の前にいる――もはや見えはしないのだが――相手の身体の横に伸びている気配の右側の一部(右腕のことだ)の先端をつかんだ。そして左足で大地を強く蹴り、高く跳んだ。相手の手を捻じりながらその頭上までのびあがり、大きく右足で弧を描くように斜めに、敵の肩から背面に全重力をかけて蹴りを入れた――
「あんた、それ…」
操はポカンと口を開いた。
「“風斬”じゃないの?草薙先輩の超人的な技よ」
「へぇ、そっかぁ…」
男吾は興味なさそうに、ぼんやりと受け答えした。
「あれが“風斬”だったのか」
「なに、のんきなこと言ってんの!」男吾の素っ気なさに、逆に操が怒り出した。
「なんで、あんたが風斬を使えるのよ?!あれは、他の誰にも」
「知らねぇよ」
男吾はうるさそうに、うんざりと返答した。
「何でああやって、体が動いたのか俺にも分からねンだ」
風斬。相手の身体を固定しつつ、防御しようのない背面に跳んで全重力と遠心力をかけて強打する、半ば重力を無視したこの技は、美奈神中に五年前所属していた空手部、草薙の駆使した伝説的な秘技だった。彼一人しか使いこなせないため、継承者のない幻の術とさえ伝えられている。
「でりゃあああああああ!」
男吾は、最後の最後にこの技を繰り出した。男吾そのものと化した水無月の身体もまた、何かを直感したのだろう。男吾は技に入る瞬間、自分の右腕をつかまれるのを感じた。しかし、それをはらう気も体力も既になかった。このまま技をかけ、動けなくなった方が負けるだけだ、宙を舞いながら男吾は瞬間、考えた。そして右足で大きく円を描き、見えない敵の背に打ちつけた。
ボグッという肉を砕ける音を男吾は確かに聞いた。それは己の背面に骨を断つ激痛を感じるのと同時だった。二人が同時に放った「重ね風斬」に、二人の男吾の意識は一瞬にして断ち切られた。
「いつまで倒れてたか覚えがない。けど、俺が目を覚ました時、水無月さんも横たわってたんだ」
全身鉛を身につけたように重く、動かない。指一本動かすと、ピシピシと強張った筋肉が音を立てた。それでも何とか男吾は起き上がった。顔を触れると、乾いた血糊が砕けて粉になり、手のひらにへばりついた。そこで初めて、横に倒れている水無月を発見したのだった。
「男吾が先に気がついたって事は、あんたの勝ちって事?」
男吾は答えなかった。
「水無月さんは倒れたまま、笑っていたよ」
操は、淡々と語る男吾の横顔を見ていた。
「もしかしたら、俺よりも先に気がついてたのかな。でもそんなの、どうでもいいことさ。水無月さんは笑っていた。いつものように微笑んでいたよ」
そう言って男吾は口を閉ざした。操もしばらく黙っていたが、話題を変えて話しかけた。
「そうそう、男吾。水無月先輩が柔道部に戻ったってことは、知ってる?」
「ああ。火山さんから昨日聞いた」
水無月は、男吾との試合の後、正式に空手部に再入部した。火山は喜んでこれを受け入れた。ここに「水無月部」は消滅、空手部には強力なレギュラーが一人増えたことになる。
「三年生だから、もう何ヶ月しか部活動はできないけど、火山さんは大喜びだったな」
「水無月先輩、再入部の挨拶の時に、こんなことを言ってたわ」
操は、昨日の部活時間の始めに行われた水無月の挨拶を思い出しながら口に出した。
「強さとは何か、何のために強くなりたいと思うのか、それをもう一度考え直すために戻ってきたんです…って。やっぱり、真面目な人よねぇ。でもさ」
そこで操は首をかしげた。
「でも、何故今頃になって戻る気になったのかしら?」
やはり男吾は答えなかったが、水無月は火山と男吾の二人だけに、本当の思いをそっと告白していた。
「でも、楽しみよ、あたし!」
操は喜びに武者震いしていた。
「あんな凄い人が入部してくるんですもの。明日からの練習が楽しみだわぁ!」
そんな操を男吾は呆れた表情で見やった。
「おいおい、まだ水無月さん、俺と同じでまだ完治してないんだぞ」
「でも、すごいじゃない、水無月先輩。あたしの「分身」みたいにあたしの技をコピーしちゃったのよ!自分と闘える、こんな経験ざらにないわよ」
あの柔道部全滅事件の直前、操たちは水無月の稽古を受けていた。その時操たちは水無月の力を知った。皆は大喜びで自分自身と試合をしたということらしい。過去の選手との練習にも華が咲いたと聞いている。
「鬼塚先輩、ベッドの上でため息ばかりついてこぼしてたって話よ。水無月が欲しい、やっぱあいつは欲しかったなぁ、って」
ケラケラと操は明るい笑い声を立てた。男吾の目に、彼女の他意のない笑顔が、水無月の照れた微笑みに重なった。
「あの時、僕は円谷君らに稽古をつけていた。公に出るのは僕の趣味じゃないが、正直あの稽古はここ最近で一番楽しかったな。本当に楽しかった」
水無月さんはそう語った。柔道部での稽古を語った時の彼は楽しそうだった。
「円谷君や巴君達に会えて、本当に僕は楽しかったよ」
水無月は再入部の意志を火山と男吾に伝えにきた時、少し顔を赤く紅潮させ、照れながらこう告白したのだ。
「柔道部のみんなと稽古した時、みんな楽しそうだったよ。僕も本当に楽しかった。僕に稽古をつけてくれと巴君が頼み込んだときも嬉しかったよ。僕みたいなのと真剣に勝負してくれるみんなと一緒にいて、僕は楽しかった。毎日決闘に明け暮れている時も、水無月部で闘っている時も、僕はいつも一人だったから。僕はずうっと一人で、一人と闘っているだけだったんだ」
水無月は俯いて、小さな声で二人に聞いた。
「…そんな僕が、今更戻ってもいいんだろうか?」
「大丈夫だ、水無月。安心して戻ってこい」
火山は、即座にそう答えた。
「みんな、お前が戻ってくるのをずっと待ってたんだ。それにさ…」
火山は水無月にニッと笑いかけた。
「お前は、俺の友達じゃねぇか!」
顔を上げて水無月は笑った。彼の微笑みは、泣き笑いのように見えた――
「あんただって、明日から道場に戻るのよ、今度の地区大会に向けてね!」
「冗談じゃねーぞ!こんな包帯だらけで何しよってんだ!」
「文句があったら、水無月先輩を見習いなさい!」
やがて、始業を知らせるサイレンが鳴った。二人は言い合いながら楽しそうに、校舎に向かって走り出した。
(後編 完)
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