novel

「一人ぼっちの新人戦・後編〜乾坤一擲!1対362〜」 (作・はなぶさえいいち)
 

第1章

 「だめだ、巴」
 吉村はそう断言した。
 「今回の地区大会は出場を放棄する。それしかない」
 「でも、先生!」
 「出たくても、部員がいないんだ。分かるだろう、巴」
 そう問い返された男吾は、唇を強く噛んで、口を閉ざした。体が震えてくるのを押さえることができなかった。
 この職員室には、男吾と吉村の他に数人しかいない。吉村の声が部屋の中を静かに響いた。傷ついた部員を保健室に連れていった後、吉村は男吾に、地区大会出場辞退を宣告したのだ。
 あれほど男吾が楽しみにしていた大会への道は、突如として断ち切られた。柔道部員全滅という理不尽のために。もちろん吉村にも、男吾の失望と無念は充分すぎるぐらい分かっていた。しかしどうしようもないことだった。さっきから繰り返している科白を今一度、吉村は繰り返した。
 「出場できる柔道部の部員が、お前以外一人もいないんだよ。全員が相当な怪我を負っている。こんな状態で地区大会に出るのは無理だし、第一危険だ。下手なことをしたら一生スポーツできなくなる可能性だってあるんだ。特に円谷については――」
 吉村は目を閉じて続けた。
 「――かなりの重傷だ。骨折こそしていないが、打撲傷が全身に数十個所もあって、鬱血している部分も多い。安静にして治療を受けないと全身痣だらけになるかも知れん。女性の彼女には酷なことだ。それに、これ以上無理させると、筋肉に長い影響を及ぼすと医者の先生もおっしゃっている」
 吉村は男吾の目を見据えた。いつもは大人しいこの教師の目に、有無を言わせない意志が映っていた。
 「彼女だけじゃない、連続した運動に耐え得る状態の者はほとんどいないんだ。偶然道場を離れていたお前だけが難を逃れていたのが、唯一の幸いだったがな」
 「…」
 男吾は無言で拳を握った。彼にはそれが悔しかったのだ。
 傷を負った部員は全員、その場で簡単な処置を受け、重傷者はそのまま病院に、軽傷の者は保健室か、寮の自室に運びこまれていた。怪我人があまりに多いため、近所の医者までが駆り出されている。今のところ、全員面会謝絶状態だった。とりわけ操と鬼塚らレギュラー陣はいまだに意識を回復していない。
 吉村は男吾だけでも助かって良かったと言う。そうではなかった。男吾は悔しかった。その場にいるべき人間がそこにいなかった、誰も助けてやれなかった。大会も辞退だ。他校の選手は大文字を腰抜け呼ばわりするだろうか。その悔しさに歯をくいしばって耐えた。
 「大会出場辞退の手続きは私がやっておく。帰りたまえ、しばらくして落ち着いたら、みんなの見舞いに行ってくるといい。…友人が心配だろうからね、いずれ私も行くつもりだよ」
 「ちょっと待ってください、先生!」
 尚も男吾は食い下がった。
 「出場辞退のことなら、もう少し待ってください。部員なら集めます、俺の知り合いに声をかければ、何人かは」
 「何だと――」
 男吾の提言に、吉村の顔が不意に険しいものに変わった。
 「だから、メンバーさえ揃えれば、大会には…」
 「馬鹿なことを言うな!」
 温厚な彼には珍しく、吉村は不機嫌そうに怒鳴った。男吾には、彼の不機嫌の理由が分からなかった。
 「馬鹿なことを言うもんじゃない。メンバー入れ替えによる大会出場など私は認めないからな…二度と下らん提案をするんじゃないぞ、巴。――分かったら、行け」
 吉村は手を振って退室を促した。男吾は諦めて、小さくお辞儀をした。「―失礼します」
 「待て、巴」
 男吾が部屋のドアに手をかけた時、吉村の声が男吾の背中を追ってきた。吉村は何か言いにくそうに言葉を探していたが、やがて諦めて言った。
 「柔道部を全滅させた相手だか…」
 吉村はちらと目をそらして続ける。
 「犯人と思われる人物がいるらしいな。お前は聞いているか?」
 少し考えて、男吾は返答した。
 「…三年の水無月さん、ですか」
 「そういう噂もあるようだな。一部の間で、彼はかなりの強者だと聞かれている。実際道場で“何か”が起こった後、道場から走り去っていく彼の姿を何人かの生徒が目撃している」「本当ですか?」
 そして、怪我人の中にも彼はいなかった。その後の本人の行方も知れていない。
 「だがな、巴」
 吉村は男吾の目を強く見つめ直した。
 「変なことを考えるんじゃないぞ。まだ確証は何もない。第一、一人で70人も倒せるかどうか。不明な点が多すぎる。例え相手がどんな人物でも、初めから疑ってはいけないと私は思う。しばらく待て。そうすれば真実は見えてくる。…いいな?」
 「はい」
 男吾は短く答えた。少なくとも教師の前ではそう答えるだろうな、と吉村は内心苦笑した。男吾は頭を下げ、静かに職員室を出ていった。吉村は男吾の出ていったドアをしばらくぼんやり眺めていたが、ハッとして慌ててドアの所まで走って、左右を見渡した。
 長い廊下に、もう男吾はいなかった。彼が出ていってから10秒も経っていない。吉村は悔やんだ。
 「あいつ、やっぱり水無月のところへ…!」

第2章

男吾は走っていた。
 「ちくしょう、ちくしょう…」
 呪詛の言葉だけが、繰り返し男吾の頭の中に反覆した。
 水無月を探さなくてはならない。柔道部壊滅のあとで、水無月が道場から出ていったのを何人かが目撃している。そして今、水無月は姿を消していた。例え彼が真犯人じゃないとしても、何かこの事件に関係している可能性がある。それを聞かなければ気が治まらなかった。
 男吾は、しゃにむに学園内を走り回り、水無月の姿を探した。いつもなら彼は、ビニール袋を片手にゴミ掃除に勤しんでいる時間だった。しかし今、水無月はどこにもいなかった。男吾は流れる汗を拭って、毒づいた。
 「ちくしょう、いったいどこに行っちまったんだ…」
 男吾は立ち止まって、荒い息をついた。その時、前方に伸びる影に気付いたのだ。 彼の前に、五人の男達が立ちはだかっていた。男達は男吾を認めると、顎をしゃくって仲間に合図を送り、音も立てず男吾の周りを取り囲んだ。
 「お前、巴男吾だな?」
 「なんだ、お前らは。何か、俺に用があるのか」
 男吾は彼らを不審そうに見た。服装こそ大文字中の制服だったが、見たことのない連中だった。彼らは顔を歪め、ニヤリと笑った。加虐的な笑みだった。
 「こんな所にいやがったのか、巴。さっきはやりそこなったが…」
 「なに?何のことだ」
 男は男吾の問いを聞き流して、隣の仲間に話しかけた。
 「ちょうどいい、好都合だ。ここでやっちまおうぜ」
 「待て!お前らはいったい――」
 男達は無言で攻撃の円陣を少しずつ縮めていった。「行くぜ」彼らのリーダーらしき一人が、全員に攻撃の合図をかけた。
 そして一斉に男吾に飛びかかろうとした瞬間――
 「うがっ!」
 うめき声をあげ、男達の一人が空中を飛び、転がるのを男吾は見た。男吾の前には何時の間にか、一人の男が立ち、彼らを睥睨していた。彼の両手は、こんな時にもポケットに収められている。男吾は叫んだ。「水無月さん!」
 「巴君、ぼんやりしてるんじゃない」
 水無月は後ろに立つ男吾をたしなめた。「こんな連中、君の敵じゃないだろう。落ち着いて相手を観察しろ…こいつら、大文字の生徒じゃないぞ」
 水無月は、最後の言葉を囁くように男吾に伝えた。
 「なんだ、こいつ」
 攻撃を食い止められ、ひるんだ襲撃グループだったが、すぐに体勢を調えた。所詮相手は二人だと気を取り直したのだ。一人が気づいて、水無月を指差した。
 「こいつ、確か水無月って奴じゃないか?火山の友人の」
 「火山?空手部の火山のことか」
 もう一人がそれを聞いて、せせら笑った。
 「一年前、びびって逃げ回ったっていう、あの腰抜け火山のか」
 「腰抜け火山――」
 その言葉に水無月は反応した。彼の眼に「何か別のもの」が一瞬映った。
  ――男吾は信じられないものを見ていた。
 いつ、水無月が行動を開始したのか、男吾には分からなかった。ただ、彼に分かったのは、襲撃グループの二人が同時に水無月のパンチを受けて、体を宙に浮かせていたことだけだった。一人は音を立てて、大地に叩き付けられた。水無月の腕が長く伸び、もう一人の男の腹部に突き刺さっていた。水無月の体が揺れるように傾いだ。
 数秒間、その体勢のまま二人は静止し微動だにしなかった。が、やがて男の体は地に崩れ落ち、そのまま動かなくなった。
 男吾は驚愕した。しかし男吾が驚いたのは、その攻撃のスピードだけではなかった。  
 “この技は…!”
 水無月は瞬時に二人の男を打ちのめした。その時彼が使った「技」は既に男吾がよく知る物だったのだ。
 “この技を、どうして水無月さんが…?!”
 「…火山さんを愚弄するのは、許せないね」
 水無月は残った男二人を、じろりと一瞥した。いつもの水無月の顔ではなかった。憤怒が彼の表情を一変させていた。水無月の瞳の奥に青白い炎が見えた。柔和な少年の眼差しは消え去り、その酷薄な眼光は、敵のなけなしの戦闘意欲を奪い去っていた。
 「ひえぇっ!」
 二人は悲鳴を上げ、その場を転がるように逃げ出した。水無月がそれを疾風のごとく追う。やがて三人の姿が男吾の視界から消え去り、あとには呆然とそこに立ちすくむ男吾が只一人取り残されただけだった。

第3章

 男吾は火山の部屋に座っていた。 男吾は、初めて見る火山の部屋を見渡した。壁にかかった服からは、いかにも男部屋の雰囲気が漂ってはいたが、男の部屋には珍しくこざっぱりとして、男の部屋特有の男臭さを感じさせなかった。
 「コーヒーできたぞ、巴」
 その声に、男吾は振り返った。ドアのこちら側に、盆を持った火山が立っている。
 「すんません、いきなりやってきて、コーヒーまで出してもらっちゃ」
 「気にすんな。寮の消耗品だから、俺の財布は痛まない、と…ほら」
 火山は手にした盆を男吾の前に差し出した。パックの砂糖とフレッシュを添えたカップのコーヒーが暖かい湯気を立てている。
 男吾はカップを取り、何も入れずに飲みだした。火山はそんな男吾の様子をじっと見ていた。
 「お前、水無月にケンカふっかけようとしてただろ?」
 「分かるんですか?」
 「当たり前だ」
 馬鹿野郎が、と火山は付け加えた。
 「学園内は、柔道部全滅の話で持ちきりだ。一部の連中が、下手人は水無月だと噂しているらしい。その後、お前が学園内を走り回っているのを何人かが目撃している。誰が考えたって、報復に向かったと思うだろう?」
 男吾はカップに口をつけたまま、火山の言葉を聞いていた。
 「で、俺はお前を止めようと探してたんだが、まぁ間に合ったようだな。お前の方からこっちに出向いてくれたせいで、余計な騒動も未然に防げたわけだ」
 「逆に、水無月さんに助けられたですよ」
 「だから言ったろ、あいつは強いってな」
 火山の言葉を、男吾はぼんやりと聞いていた。今は別のことが男吾の頭脳を支配していた。水無月が男達に放った一発のパンチ。その光景が、彼の脳裏に繰り返し映し出されていた。
 「ところでな、巴」
 「え?」
 不意に火山の声が、男吾の耳に鳴り響いた。慌てて、男吾は横を振り返った。火山は険しい顔をして座っていた。
 「俺がお前を追ってたのは、頭に血の登ったお前を止めるためだが、もう一つ理由がある。…お前、新しくメンバー探して、地区大会に間に合わせようって、先生に提案したらしいな?」
 「誰からそれを」「誰からでもいい」
 男吾の問いを火山は無視して、吐き捨てるように言った。
 「まったく、くだらねえこと言ったもんだな、お前は。正直、俺は呆れたよ」
 「でも、火山さん」火山の態度に、思わず男吾は反論した。
 「柔道部六連覇がかかってるんですよ、柔道部主将として……」
 「馬鹿野郎!」
 突如、火山は吠えるように怒鳴った。男吾はその場に動けなかった。
 「調子に乗るな、巴!部員を集めるだと?お前はそんなに大会の方が心配なのか!友達が怪我して倒れたんだぞ、その方が心配じゃないのか?それなのに、見舞いにも行かずに、血迷って犯人探し…お前、それでも主将かよ。それになんだ、人を集める?そんな急ごしらえの部員に何ができるんだ。お前も見てきたろう、部員達の練習姿を。みんな必死になって昼も夜も頑張ってきたんだ、だからこそ彼らは強い。お前はそんな彼らを侮辱しようとしているんだぞ!いいや、それだけじゃない」
 火山は続けた。
 「急ごしらえの部員はどうなる?恐らくただ倒されるだけの役割しかできないだろう。結局は人数あわせなんだ。勝てるのは巴、お前だけだ。残りの彼らはお前の活躍を横目で見て、惨めな気持ちを味わうだけさ。彼らはお前を引き立たせるだけの、ただのピエロか?お前のためだけの大会じゃないんだぞ!」
 男吾には一言もなかった。火山のいうように、今心配しなければならないのは、仲間たちのことなのだ。それなのにただ大会に拘泥するだけだった自分が最低の男に成り下がったように男吾は思えた。
 「…お前は、小学生の尻尾を引きずってるところがある。まぁ仕方ない、まだ一年生なんだからな」
 火山はやれやれ、と苦笑した。その顔はいつもの表情に戻っていた。
 「いいか、主将は、ひとつの“義務と力”を持たなければならない。それは、“部員を守る義務”と、“冷静に考える力”だ。落ち着いて、冷静に考えろ。分かるな?」
 「――はい…」
 「よし。…コーヒー飲みな、冷めちまうぜ」
 火山の勧めに、男吾は暖かい液体を啜った。冷静に考える。吉村にも同じように教えられたことだ。男吾は火山の言うように、考えた。互いに関係を持たない様々なものが彼の頭の中を駆け巡っていた。全滅した柔道部、操の言葉、水無月のあの「パンチ」、襲ってきた謎の連中…
 それらをゆっくりと、ゆっくりとパズルのパーツをはめ込むように、繋げていった。やがて少しずつ、確かな感触で「何か」が見えてきた。
 しかし足りないものがある、何か重要なものが。男吾はようやく思い到った。パズルの中心にはめ込む、その欠けたパーツを。
 男吾はまだ中身の残っているカップから口を放した。「どした?」火山は、男吾の様子をいぶかしんだ。
 「火山さん、教えてくれ」
 「何だ、巴」
 男吾は火山の方に向き直り、その眼を見据えた。
 「水無月さんの“才能”のことと、それに“水無月部”のことを」
 「水無月の?」
 「そうです」男吾は畳み掛けた。
 「俺を襲った連中を、水無月さんはたった一発のパンチで倒しました。たった一発です。…しかもこのパンチは、以前俺が受けた経験のある一発だったんです。あれは間違いなく、俺が小学生だった頃に火山さんから受けた“流れ正拳”だったんですよ。あれが駆使できるのは俺の記憶じゃ、火山さん、あんたしかいない。それが水無月さんにも使えたということは。いや、それだけじゃない。操の謎めいた言葉の意味…もしかしたら、水無月さんの力って」
 「分かった、巴」
 火山は手を挙げ、男吾の科白を制した。そして、ふっと軽いため息をついた
 「あまり人に知られたくなかったが、仕方がないな。そうしないと、お前が何をしでかすか分からん。教えてやるよ、俺に分かっている範囲でな」
 その時、部屋を叩く音が響き、同時に男が顔を覗かせた。空手部の一年生だった。彼は息をつき、嬉しそうに二人に報告する。
 「火山先輩、操さんが眼を覚ましたそうです!」
 「操が…!」
 二人は同時に安堵の声を上げた。
 「まずは先に、操から説明してもらおうぜ。今の話、操の見舞いの後でいいよな?」
 火山の提案に、もちろん男吾に否やはなかった。

第4章

 「相変わらず汚い男ですね」
 数人の男に取り囲まれても、彼は別段恐怖するでもなく、いつものように落ち着いた物言いをした。いや、のんびりと表現した方が正しいだろう。その証拠に――彼は拳を構えるでもなく、その両手をズボンのポケットに突っ込んだままだった。
 対照的に彼を取り囲む男達からは凄まじいばかりの殺気が漲っていた。同時に、相対する男に非常な恐れも感じていた。今闘おうとしている、一見優しそうな眼差しを持つ少年が、その実恐るべき凶器であることを知っていたのだ。
 今、深夜の三日月の光の中で、決闘が行われようとしていた。
 いや、決闘と呼ぶにはあまりにも一方的な体勢だった。なぜなら一人の男に対して、それを取り囲んでいるのは十人もいるのだから。こんなものは決闘でもなんでもなく、ただのリンチに過ぎない。そう、普通ならば。
 十人に取り囲まれた男――水無月馨は依然余裕を持って、自分を囲む男達を検分した。もっとも、観察したからといってどうしようもなかった。彼を襲おうとしている者は皆、覆面をして顔を隠していた。
 水無月はいい加減代わり映えのしない連中に飽きて、欠伸をした。その態度が正面に構える、敵の首領の癇に障ったらしい。覆面の下からくぐもった怒声が聞こえた。
 「余裕たっぷりだな、水無月。だがそれもここまでだ。二度とそのへらへらした態度ができないようにお仕置きしてやるぜ」
 「お仕置きは幼稚園の時に卒業してましてね」
 まるで答えないように、水無月は呆けてみせた。完全に目の前の男を小馬鹿にしていた。
 「それより、暑苦しいからその覆面取ったらどうです、高山中の空手部主将、川西さん」
 「…!」
 水無月の言葉に、的確に覆面の男は反応した。周りの男達も明らかに動揺している。水無月はニヤッと笑ってみせた。悪戯っぽい茶目っ気が顔に映る。
 「あんたの不細工な顔拝まなくたって、分かってるんですよ、僕には。技を見さえすればすぐにね。あんたの技“登竜拳”でしたっけ?ハッタリがきつくて僕はあまり買ってないんですけど…あんたですよね、奇声を発してうちの柔道部員、片っ端から殴ってたの」
 柔和な水無月の表情が次第に険しいものに変貌していった。滾るような怒りが彼の顔に刻まれていく。
 「初心者の一年生を情け容赦なく、よく痛めつけられたもんだ。それで武術家なんてよく言えたもんですよ」
 水無月はジロリと周りの覆面連中を見渡した。
 「あんた達の正体もばれてるんですよ。右から順に紹介してあげましょうか?岬中柔道部の二年の向山さん、田之倉中の合気道部主将、だった斎藤さん。確か部を追放されたんですよね。その隣は東光中で番をはってる新開さん。それから…」
 「もういい、止めろ!」
 川西が苛立たしそうに怒鳴った。水無月は黙った。もちろん脅えたからでは更々なかった。逆に相手を挑発にかかる。
 「あんたが言い出したんだ、こっちを怒るのは筋違いだと思いませんか?」
 「…」
 川西が体を震わせて怒りを押さえていた。限界だった。
 それを察知して、ようやく水無月は両手をポケットから出した。無言で構えをとる。周りの男達も弧を描いて攻撃の隊形を作った。じりじりと水無月に接近しながら仲間と交差し相手の幻惑を誘う。
 間合いが少しずつ短くなっていく。いずれ緊張を破る距離にまで近づくだろう。 今まさに決闘が開始されようとしていた――その時。
 「待った、待ったぁ!その決闘、俺も参加するぜぇ!!」
 夜空に響くその大声に、一瞬そこにいる誰もが声の発する地点に目をやった。
 そこには男吾が立っていた。

 「お前は、巴…!」
 覆面の一人が驚愕の声を出した。男吾はそちらをチラと一瞥した。
 「へぇ、あんたは俺の顔、知ってるんだ?一年坊の俺を」
 覆面はそのまま黙り込んだ。男吾はその意味を解説した。
 「その声にも聞き覚えがあるな。て、ことはあんた、大文字中学柔道部を退部した、宮地さん、かな?」
 男吾は円陣に近づきながら、取り囲まれている水無月に声をかけた。
 「水無月さん、あんたの言ってたことだったよね?“入ってくる人間より、出ていった人間の動きは分かりづらいものだ”だったっけ。火山さんも似たようなこと言ってたな。さすがですよ、こういうことだったんですね」
 「まあね」
 意外に明るい男吾の声に、水無月は苦笑した。この殺伐とした場にそぐわない雰囲気がおかしかった。
 「分かってくれて僕は嬉しいよ」
 「じゃ、取りあえずこいつらをのしちゃいますか?」
 そう言って男吾は、十人の悪漢を胡散臭そうにグルリと眺めた。水無月はまた、クックと笑いながら肩をすくめた。
 「そうしよう。僕一人でも間に合うと思うけど、せっかく来てくれた君に失礼だからね。…まさか、尾行してきたとはな」
 「水臭いなぁ、水無月さん。誘ってくれれば、いつでもお伴したのに」
 「余計な足手まといになるかもしれないからね。でも、そんなこともなさそうだ」
 「何、二人で勝手な話をしてるんだ!!」
 川西は、決闘のこの場で、くつろいでしゃべりあう二人に完全に我を失っていた。馬鹿にされた怒りで、顔が真っ赤に染まっていた。「やっちまえ!!」仲間に号令をかけ、自らも輪に加わる。
 「馬鹿はやっぱり馬鹿なことしかしないもんだね」
 水無月はひとりごちた。「取り囲んだ一人の敵に助太刀が外から現れた時点で、作戦を大幅に変更しなければいけないのが常道だっていうのに」
 男吾もそれが分かっていた。この場合に劣勢のとる手段は一つ。男吾は敵陣に向かってまっしぐらに突入した。それに反応して水無月は別の方向に走る。円陣さえ崩してしまえば一対一とたいして変わらない。陣を崩した敵の中を、二人は疾風の如く駆ける。
 「でやあああああ!!」
 「うおりゃあああ!!」
 男吾と水無月の雄叫びが轟いた。

第5章

 男吾と水無月の二人は、深夜の道を歩いていた。少し上着が痛んでいたが、体には特に傷はない。
 「かなり前から、僕はこの事態を危惧していたんだ。そう…シロトカゲ、倉田先生が学校を辞めた時点でね」
 水無月は男吾を見ずに語り始めた。男吾も敢えて水無月の方を向かなかった。
 川西をはじめとする十人の悪漢は、二人によって「のされて」しまった。「ケンカの名人」の男吾は当然のことだが、加えて水無月の「才能」は恐るべきものだった。自分一人でも間に合うという彼の豪語は伊達ではなかったのだ。
 「倉田時代は――僕たちはそう呼んでいた――本当に嫌な時代だった。多くの生徒が苦しんでいた。しかし中には、暴力が公然に認められ、差別的な階級性の上で喜んでいた者も多く存在した。今日見た宮地もそういう一人だ」
 水無月は一度言葉を切った。何か思いだしているのかも知れないが、男吾には分からなかった。やがて水無月は話を再開した。
 「それが君の登場で、あっけなく彼らの天国は消滅した。面白くないのは当然だったろう。自然、君を目の敵にして、出来れば君には消えてほしい…そう思ったとしても不思議はない。だが、君は強い。正攻法で向かったところで勝ち目はないさ。そこで彼らは考えた。他校の助太刀を借りたらどうかってね」
 「…」
 「彼らにとって幸いなことに、君を…というより、うちの柔道部を嫌うものも多かったらしい。5年間の優勝を繰り返す大文字中学柔道部をなんとか負かしたい、しかしこれまた正攻法じゃ手も足も出ない連中というのもいるものさ。こうして互いの利益は一致した。更に彼らは自分の面が割れるのを恐れて、他分野の仲間に声をかけて手伝ってもらおうと考えたんだろうね。奴らは勝ちさえすれば何でもいいんだ。卑怯かどうかなんて関係ない。
 僕が真っ先に思ったのは、巴君個人への攻撃だ。君がいないだけで柔道部の戦力は大きく後退する。実際いろんな連中がきたよ。全部追い返してやったけどね」
 男吾はようやく気づいていた。柔道部の一年生に絡んでいた学生のことを。あれは偶然ではなかった。大文字では見ない顔の連中。柔道部員を選んだのも、彼と闘う口実だ。それを水無月が未然に防いだのだ。
 「君自身を傷つけるのが不可能ならば、不名誉な烙印を刻むというやり方もある。例えば、大会直前に大喧嘩をやらかして他人に傷を負わせる…そういう方法も当然考えていただろう。僕はなるべく君の近くにいたよ。気づいていたかどうかは知らないけど」
 男吾は黙っていた。観察していたのは、実は水無月の方だったのだ。
 「しかし、まさかあんな暴挙にでてくるとはさすがに僕も考えなかったよ」
 水無月は感嘆の声を出した。もちろん、賞賛ではない、軽蔑の声だ。男吾は改めてその内応を反芻した。
 「それが、大文字柔道部襲撃」
 「…あの時、僕は円谷君らに稽古をつけていた。公に出るのは僕の趣味じゃないが、正直あの稽古はここ最近で一番楽しかったな。本当に楽しかった。そこに奴らが現れたんだ。尋常な姿じゃない、昼間っから覆面をつけて奴等は襲ってきた。数も半端じゃなかった。百人を越していたんじゃないかな。その誰もがそれなりに名うての腕の連中だ。あっという間にみんななぎ倒された。僕一人だけなら防ぎながらなんとか逃げ出せたろうが、みんなをほおっていくわけにはいかない。僕も必死になって抵抗したよ。もっとも、さすがに多勢に無勢さ、百人相手に勝てるわけもなかった。何十人かに同時に飛びかかられてダウンした。薄れる意識の中で、それでも首謀者達の「技」だけは眼に焼き付けておこうと床に転がって考えていた。それさえ分かればよかった。襲撃した奴らの最大の誤算は、あそこに僕がいたことだった。
 奴らは徹底的に柔道部を蹂躪した。巴君こそ逃がしたものの、これで地区大会出場は不可能になり、笑い者になるのだから。怪我した仲間を背負って、彼らは逃げていったんだ。
 …ようやく起き上がれるまでに復帰した僕には、見逃がした連中のことを調べる必要があった。悪いと思ったが、円谷君たちを無理に起こして彼らの技の特徴を聞き出した。ほとんどの連中の技を僕は知っていた。百人相手に無理だと、円谷君は僕を心配して止めてくれたが、行かないわけにはいかないからね。水無月部の僕にとっては」
 “水無月先輩を止めて”操の言葉が男吾の脳裏に甦った。
 「僕はすぐに行動を開始した。下手人はみんな分かっていた。どいつの技の癖も、僕は知っていたからね。僕は確実に一人ずつ、始末した。で、連中慌てて最後の仲間を引き連れて、さっきの果たし合いになったってわけさ」
 水無月は話を終えた。そしてククッと笑った。
 「まさか、君が僕の後を尾行してくるとは思わなかったから、びっくりしたよ。適当にあしらえば、マケると考えたが…」
 「俺は初め、柔道部襲撃の犯人は水無月さんかと勘違いしてました。だけど、後で水無月さんの話を火山さんから聞きましたから」「僕の話を?」
 水無月は先を促した。
 「水無月部の本当の意味を知って驚いたんです。あの部の本当の部活動って」
 「だから、前にも言ったよね」
 水無月は疲れた口調で、繰り返した。
 「ゴミ掃除だよ、って」
 …水無月部。表向きは水無月馨によるただの自由活動だ。しかし実際は彼の武術の「才能」を活かしての、部活動の非公式な行為を牽制し、防御する作業を主としていた。その真の活動を知っているのは、友人の火山以外、学校関係者数名しかいない。
 敵対する他学校の部活を邪魔して自分を優位に立たせる、そういった行為はごく日常茶飯事に行われていた。特に暴力的な学校にはよくある話だった。それを阻止するのが水無月の役目なのだ。どの部にも所属していないから枷はない。自由に学園を歩き回って情報を仕入れるのもお手の物だった。いろんな連中が騒動を起こしている、そんな「ゴミ」を解決するのが水無月の役割だ。その重宝さゆえにあの倉田時代にも、存続が許されたのだ。
 “ゴミはいくら拾っても次から次へと涌いて出る。それでもうちの生徒が捨てるだけなら、まだ腹も立たないよ。しかしわざわざ大文字に来て捨ててく奴がいる。困ったもんさ”男吾は水無月の暗喩を思い出していた。
 「今回は出遅れたよ」
 水無月は悔やんだ。
 「彼らがあそこまで追いつめられているとは僕も推理できなかった。そのせいで柔道部は大会出場放棄だ。済まないと思ってるよ、巴君」
 男吾はかぶりを振った。
 「いいんです、俺の方こそひどい間違いをしてたんだ。そんなことより…」
 男吾は少し躊躇したが、言葉を続けた。
 「俺は水無月さんの“才能”について、詳しく聞きたいんです」
 水無月は足を止めた。男吾も同じように止まった。水無月は指で道の向こうのベンチに示した。
 「少し長いけど、いいかい?」
 男吾は頷いた。

第6章

 僕がこの才能について気づき出したのは、小学校4年生の頃だったよ、それまでの僕は弱虫だった。体を動かすのはあまり好きじゃなかったし、部活にも入らなかった。もちろんケンカなんて大嫌いだったさ。
 そんな頃だったか、町で同級生のチンピラに絡まれてさ。怖かったよ、本当に怖かった。どうしていいか分からなくてパニックを起こしかけた。そんな僕を見てかさにかかって、相手は僕に柔道か何かの技をかけてきた。聞きかじりの武術でもやってたんだろうな。
 僕はなぜか投げられなかった。気がつくと、そいつの方が地べたに転がってうめいていた。そのあと、僕は何度も何度もその理由を考えて気づいたんだ。もしかすると自分には何か才能があるんじゃないかってね。
 そいつを試すため、クラスの力自慢を少しからかって挑発してみた。そいつは「弱虫」の僕に飛びかかってきた。結果は思った通りだ。何度か繰り返して僕は知ったんだ。僕は相手の繰り出す技を冷静に分析していたんだよ。そのうち、そのタイミングが、いや、相手の動作、癖、全ての仕種が「見えて」くる。少し観察すれば、同じ技が使えるようになった。相手はひっくり返った。そして彼の技は「僕のもの」になる。
 僕は狂喜した。そうだろ?今まで自分は弱虫だと思い込んでた。スポーツなんか無縁の世界だと考えてた。それが突然目の前が開くように自分の世界になったのさ。僕はすぐに部活に入部した。そして片っ端から相手を見つけて闘いを挑んだ。相手は倒れ、自分には新しい技が手に入る。自分がどんどん広がるのを感じた。自分は強い。何も疑うことなく僕は自分の才能に酔いしれた。
 大文字中学に入学した時、既に僕は荒くれ者として名を馳せていた。もともと喧嘩っ早い連中ばかりの学校だ、即日、僕に沢山の果たし状が届いた。もっとも、こっちだってそれが目的で大文字に入ったんだ、お互い様さ――
 僕は空手部に入った。ここで一番荒っぽかった部だからね。そこで火山さんとも同期になったわけだ。
 毎日がケンカで、毎日が決闘だった。学内ばかりか、学外からもひっきりなしに相手がやってくる。そいつらを尽く叩きのめして、ついでに技も頂戴した。部活ではすぐにレギュラー、大会にも出場したさ。毎日、ケンカばかりの日常だったから、僕には友達がいなかった。みんな僕を怖がって近寄りもしない。僕は別に構わなかったよ。強くなりさえすれば、友達なんかいらなかったし、逆に何かあったら弱いみんなを守ってやるさ、と傲慢にも考えていた。それほど僕は自分が強いと思ってたんだ。闘ってきた何十、何百の技を体内に封じ込めた、まさしく「闘いの化身」だと自負していた。
 そうそう、火山さんとは同期だともう言ったよね?彼とは不思議に仲のいい友人だった。もちろん、今だってそうだけどね。けれど、火山さんは何故か僕と組手をしたがらなかった。何かと誤魔化して相手をしないんだ。僕は初め、失礼だけど彼は僕を怖がっているんじゃないかと邪推した。無論それは邪推だった。彼はそんな男じゃなかったんだ。
 火山さんとは一度だけ相手をしたことがある。同じ部員同士、やらないのも変だとか何とか僕は屁理屈をつけて無理矢理彼を闘いの場に引きずり出した。もちろんそんなのは口実さ。僕はただ火山さんの技が欲しかった。それだけだったんだ。
 僕はすぐにでも勝てるだろう、そう確信していた。でも、それは大間違いだった。火山さんは強かった、誰よりも強かったよ。試合は二時間ほど続いたろうか、二人とも体力を失って畳の上に倒れて終わった。結局、僕は火山さんの「流れ正拳」を獲得した。嬉しかったけど、何故か悲しかった。その時そう感じたことを今でも覚えている。
 そんな時だったよ。一年生も終わる頃、あの事件が起きたのは。
 ――その日、僕は火山さん達と仲間の四人で寮に向かって帰途に就いていた。近くに迫った大会に向けて、皆張り切っていたよ。巴君は知ってるよね?学園裏の高間ヶ原草原に続く林、通称「閉じこめ塚の森」って言われてる森さ。あそこにさしかかった時にそれが起こった。前方から柄の悪そうなのが五人。そいつらが僕らの前に現れたんだ。通り抜けることも叶わず、後ろからも奴等の仲間らしいのが数人迫ってきた。見たことのある連中ばかりだ。僕に対する待ち伏せだ。
 当然、僕は大いに喜んだ。大会の前に、いい肩慣らしになる、そんなことしか考えなかった。僕は大見得を切って奴等の中に躍り出たよ。火山さんの止めるのも聞かずにだ。
 そいつらを片っ端からなぎ倒している僕は楽しくて仕方がなかった。僕は闘いに夢中で周りの状況を判断する余裕もなかったよ。
 最後の一人を投げ飛ばして闘いは終了した。後には彼らの体が倒れているばかりだった。その時になって、思い出したんだ。火山さん達はどうしたのかって。
 ――火山さん達はそこにいた。襲撃グループの連中と同じように、ズタズタになって気を失っていた。奴等は四人を寸断して勢力を分けようとしたらしい。四人別々に襲えば僕の戦闘態勢を崩せるんじゃないかと考えたんだろう。でも違った。僕はいつものように、見境なく暴れていたんだから。
 倒れている火山さん達を呆然と眺めながら、その時初めて僕は僕自身の才能の「本質」に気づいたんだ。
 僕は仲間のことも火山さんのことも省みることをせず、ただ暴れただけだった。僕の力なら彼らを助けることもできたのに、「弱いみんなを守ってやる」なんて言っておきながら、そうしなかった。それは何故だ?
 僕は闇雲に力だけを欲して、闘いだけが生きがいになっていた。気づいたら自分以外守るものがなかったんだ。僕の力は、闘いの神に授けられた栄光でも誉れでもない。そう、単に自分の身を守ろうとするだけの、弱虫の「本能」に過ぎなかったのさ。
 後から聞いた話だ。あの火山さんがどうして簡単に負けたんだろう?火山さんは大会前に皆に迷惑をかけるのを恐れて全力で逃げ回ったんだそうだ。そこを奴等につけこまれたという話だった。僕はそこまで考えが到らなかった。ただ自分を攻撃する連中を破壊することだけに熱中していたんだ。「逃げる」ことは恥ずかしいことだと、ずっと思ってた。あの強い火山さんが逃げ回っている光景は、きっと惨めなものだったろう。でもそれが「偉大」なことだと知らない僕は、やはり小学生の時と同じ「弱虫」だった。
 僕は空手部を辞めた。火山さんは残って欲しいと何度も言ってくれた。でも、もう僕にはまともな舞台で戦う意志はなかった。大会は火山さんを含む数人のレギュラーを欠き、惨敗に終わったよ。そして僕は水無月部を作った。もう闘うべきじゃなかったけど、陰ながらでも自分の力が皆の役に立つのなら。僕にできる償いはこれくらいだったからね。
 僕は「自分の身を守らない」ということがどういうことか知りたかった。たいした攻撃でなければ甘んじて受けることにした。軟球にぶつかるのを君も見てたろ?両手は最大限使わないように、いつもポケットに入れていたよ。
 大会の責任を感じて僕が退部したと、火山さんは思っただろうか?いや、既に気づいていたんだろうな、僕の力の意味を。
 …でもどうして、彼は僕に戻ってくるように言うんだろうか。今でも繰り返し誘ってくれるのは何故なんだろう、僕には分からないよ……

第7章

 「俺と試合をしてくれませんか」
 男吾の言葉を、水無月は不思議そうに聞いていた。男吾は言い直した。
 「いや、試合ってのが何なら、一度、稽古つけてほしいんです」
 水無月はその理由を問うた。「なんのために?」
 「負かしてもらうためですよ」
 男吾は少し恥ずかしそうに話し出した。火山に叱られたことを。
 「俺、やっぱ勝ちにこだわってたんです。そいで、今火山さんの“逃げた”話聞いて…だから俺もいっぺん、とことん負けるために稽古つけてもらいたくて」
 「負けるために?でも、僕は強い人間じゃないよ」
 「そんなこと、ないです!」男吾は強調した。
 「水無月さんはすっげぇ強いスよ。水無月さんの体の中には何百もの、今はいない選手の技が封印されてるんですよね?それってすげぇことっすよ!それだけじゃない、火山さんも言ってました。俺みたく馬鹿にはよく分かんなかったですが…
 “大抵の強い奴は自分が弱いことを知らないし、大抵の弱い奴は自分が強いことを知らない。だからほとんどの奴は弱い。だが水無月はそれを知っている。だから、奴は誰よりも強い”ってね」
 水無月は男吾の顔をじっと見た。いや、男吾の顔を見ていたのではなかった。水無月は男吾の顔の向こうに火山の姿を見出そうとしていた。しばらくそうしていたが、やがて彼は、まいったよ、と呟いた。分かった、稽古をつけよう。彼は男吾に約束した。
 「巴君、これは火山さんからのプレゼントということにするよ。後でしっかり彼に礼を言っておいてくれ」
 「了解」
 「君の条件どおり、手合わせをしよう。そして、今までに闘って、こいつは強いと思った者たちの技を全て君に披露しよう」
 「本当っすか?!」
 「ああ、男に二言はない、ただし…」
 水無月は小さく笑顔を作り、自分の胸を叩く。ポンという軽い音がした。
 「この中には、“362人”いるよ。それに耐え切れるかな、巴君?」
 男吾は唾をごくりと飲みこんだ。しかしそれは恐怖のためではない。
 「望むところです!水無月さん。今、ここでお願いしまっす!」
 男吾は上着を脱いで、すばやく構えをとる。水無月はスルリと両手をポケットから抜き取り、緩慢に攻撃に入った。
 「よし、まず手始めにこの子からいくよ。巴君、君のよく知る者だ」
 「…!」
 完全に体勢を調えた水無月の姿に、男吾は瞬間、驚愕した。
 “そんな…そんな馬鹿な…!”
 水無月の、左右に揺れる体のしなやかな動き、スルリと地を進む姿―それはまさしく…円谷操の分身そのものだった。思わず、男吾はゾクリと身を震わせた。確かに、操がそこに立っている。
 「…操が、もう一人、いる」
 男吾は呆然と呟く自分の声を聞いていた。操の言葉が脳裏に甦った。“あたしが、もう一人、いる”正しく彼女がそう伝えたように、今、水無月は操の分身と化していた。まったく異なる容貌にも関わらず、表情までが同じに見えた。
 「たあああ!!」
 「操」が男吾に閃光のような蹴りを放った。それを彼は全力で受け止めなければいけなかった。強い、やはり強い。最近は一緒になってつるんでばかりで、まともに組手もしたことがなかったが、何時の間にかこんなに技を鍛えていたのだ。
 「であああああああ!」
 声を上げ、男吾は応戦を開始した。「操」は薄笑いを浮かべ、男吾の攻撃を迎え撃った。激しい攻防が延々と続いた。男吾はもう荒い息をつき、体中から大粒の汗を流している。「操」はひょいと飛びのき、「選手交代」を告げた。
 「次っ!鬼塚!」
 「操」がその場から消え去り、瞬時に「鬼塚」が男吾の目の前に出現した。痩せぎすの体型のはずの水無月が、ありえないはずだが巨体に変化したように男吾には見える。「鬼塚」は“巨体”に似合わず、敏捷に男吾の周りを走り出した。男吾はその動きに神経を集中させ、せわしなく視線を「鬼塚」に注いだ。鬼塚の必殺技「地獄落し」はある意味、僥倖がなければ返し技は不可能なのだ。
 男吾は何度も「鬼塚」に投げられた。容易にタイミングがつかめない。以前柔道部の存続を懸けた最後の試合で破った「地獄落し」の返し技、巴投げに移るタイミングが――
 「どうしたぁ、巴!ここまでか!」
 仰向けになった男吾の頭上に、「鬼塚」の罵声が轟いた。男吾は痛む背中を庇いつつ、彼の迫力に負けまいと掛け声を返す。
 「まだまだぁ!これからだぁ!!」
 男吾は立ち上がり、正面に立ちはだかる巨大な敵に向かって突進した。
 「次っ、先代空手部副将、滝沢!」
 「次っ、師勝中柔道部主将、浦田!」
 「次っ、“水平断ち”の宗司!」
 「次っ、高波中合気道部主将、寺井!」
 「次っ、宮津中小林寺拳法部主将、鷹野宮!」
 息つく暇もなく、次々と現れる分身達は、その名を各界に轟かせた歴戦の勇者であり、今や男吾が相手することの不可能な過去の亡霊そのものだった。存在しない過去が形を得て今、男吾の前に出現した。水無月は何度となく男吾の体を容赦なく地に叩きつけた。何回、彼の身体は宙を舞っただろう。途切れそうになる意識を全力でつなぎ止め、再び男吾は身を起こした。全身到る所を殴打され、体中がバラバラになる感触を味わい、それでも男吾は不屈に二本の足で立ち、果敢に挑戦した。そして何度も敵に向かって叫ぶのだ。「よろしくお願いしまっす!」「ありがとうございましたぁ!」と。
 尚も水無月は「分身」を生み出した。
 「まだまだいくよ、巴君。次っ、大文字中空手部主将、火山!」
 激しく殴られて腫れ上がった目蓋のために、はっきりと男吾は前方を見ることができなかった。しかし、気配を感じることはできた。耳だけで相手の動きを探って、男吾は驀進した。今度もまた殴られるな、漠然と考えたが、そんなこと心配しても無意味だとすぐに気づいた。
 …大文字中学柔道部は地区大会を目前にして、一名を除き全員全滅、出場辞退を余儀なくされた。この時点で、男吾が公の場で華々しくデビューする時期は大きく遅れることになる。しかし、彼は満足していた。
 身体をボロボロにされながら、彼は一人だけの試合を続けていた。彼はひたすら純粋に闘おうとしていた。大会の勝負にこだわった半端な自分に打ち勝つために。自分のために倒れた71人の友のために。水無月馨の身体から果てることなく現れる362人の闘士達を相手に、勝ち負けを超えて、男吾は立ち向かった。
 1対362。これが男吾の、たった一人の新人戦なのだ。

第8章

 二人の試合は、果てしなく続いた。
 362人との試合を一晩で終わらせるのは、無理だった。二人は夜明けまで暗い月光の中で影のように走り、激突した。多くは片方が投げ飛ばされ、あるいは大地に叩きつけられていた。
 彼らは夜が明けるとともに無言で立ち去り、学校に向かう。男吾は授業の間、泥のように眠り込んだ。初めは何度か教師が注意したが、じきに止めた。声をかけようが水をかけようが、殴ろうが蹴りこもうが、男吾は全く目を覚まさなかったからだ。殴られてそのまま机からずり落ち、床の上で尚も鼾をかいている彼を見て誰もが匙を投げた。
 昼食時には、本能のように起き上がり、ただ無心に――いや、眠ったまま口を動かした。そして終わるとまた、机の上に突っ伏した。
 授業が終わる頃、幽鬼の如く体を起こし、終業のサイレンとともに、教室を飛び出した。その後、晩御飯のために寮に一度戻るだけで、また彼は何処かへ姿を消した。
 男吾が毎日夜っぴいて何をしているのか誰も知らない。ただ晩御飯に戻った彼の姿は壮絶に傷だらけだったことが目撃されている。顔中に殴打を受け、固まった血がこびりついている。生徒の一人はあまりの光景に一瞬トレイを落としかけた。彼を遠巻きにして引いている連中をよそに、黙々と男吾は飯をかっ込んだ。食事が終わると、外へふらりと消えていく。
 二人の試合は、誰に知られることもなく、幾晩も幾晩も続いた。

 男吾は、空を撫で切る冷たい音に、瞬間的に身をかがめた。数ミリの差で水無月の水平の蹴りが彼の髪をかすめる。男吾は両手で大地をつかみ、勢いをつけ、ほとんど垂直に両足を上に蹴りあげた。水無月が後ろに引こうとした、一瞬の間の勝利だった。男吾が水無月の肩を蹴りつけたのは偶然に過ぎなかったが、その一撃に水無月は倒れた。彼は横になったまま、男吾の悪戯っぽい声を聞いた。
 「これが、361人目。桜華中学の番長、吉住でしたね」
 「ああ」
 倒れたまま、水無月はふぅっと大きく息をついた。
 「361人目だ。よくここまで耐えてきたものだね」
 水無月は土埃を払いながら、立ち上がった。男吾はその横に控えている。
 「361人の技に屈することもなく、よくやった。やはり凄いよ、君は」
 水無月は感慨深そうに呟いた。男吾の五日間に渡る戦いも、ようやく終わりを迎えようとしていた。361人目の試合が今、終わったのだ。
 「あと、一人ですね」
 男吾が横の水無月に話しかけた。「ああ、そうだね、巴君」水無月は頷く。
 「――じゃ、始めようか。これが最後の相手だ。この試合の最後にふさわしい――」
 二人は互いに離れ、静かに間合いを取った。そして待った。 水無月は深呼吸をして息を調えた。ダラリと伸ばしていた両手を上げ、男吾を睨みつける。そして、「分身」を出現させた。
 「…!!」
 男吾は目前の敵の姿に一瞬、勝負を忘れて絶句した。
 「こいつは、まさか…」男吾はゴクリと唾を飲み込んだ。
 「――“俺”、か?」
 そう、そこに立っているのは――紛れもない、「巴男吾」そのものだったのだ。もう一人の「男吾」が己の戦いの構えを取り、自分の姿を映し出していた。最後の敵は男吾であり、同時に水無月でもあった。自分との闘い。これが最後の試合なのだ。
 立ちすくむ男吾に、もう一人の「男吾」が穏やかに言葉をかける。いや、それは水無月からの励ましだったろうか。
 「さあ、これが362人目の、君の最後の敵だ。今、君は五日前よりも遥かに強くなっている。僕には分かる、君の全てを取り込んだ僕にはね。今の君なら多分、今まで相手をしてきた者達と十分、互角に渡り合えるだろう。君は僕が戦ってきた闘士の中でも、最も強い者の一人となった。これが最後だ。闘え、そして必ず勝て――これが僕のできる最後のたむけだ。…さぁ、いくぞ!!」
 「でやあああああ!」
 雄叫びをあげ、男吾は「自分」に向かってまっしぐらに走り出した。もう一人の「男吾」も同じように駆ける。二人が同時に放ったハイキックが夜空に交差し、空を舞う二人の姿が月光に照らされた。
 男吾の、そして水無月のたった一人の新人戦、最後の長い夜が始まろうとしていた。

エピローグ

 「で、どうなったの?」
 操が隣に歩いている男吾にその続きを促した。男吾は操と一緒に学校に向かう途中にあった。始業までにはまだ時間に余裕がある。男吾にしてみれば、まだ体が完全復帰していなかったし、ゆっくり寝てもいたかったが、またも男子寮に忍び込んだ操に事の結末を催促され、泡を食って寮を脱出したのだ。操の怪我は一週間で直り、今はケロリとしている。一方、男吾は今でも包帯を全身に巻いていた。男吾は話の先を話し始めた。
 「最初は、どうにも苦戦したよ。何しろ自分と闘ってるんだ、タイミングもテクニックも何もかもが同じなんだよ。返し技も効かない。そんなことが三十分も続いたかな。そのまま終わらない試合になるかと思った」
 「それで?」
 「それから――少しずつ変わり始めた」
 男吾は、思い出そうとして頭に手をやった。
 「今でもよく分からないんだ。けど…使えるはずのない技が、体の中から不意に出てきたんだよ。自然に体が動いて何時の間にか技が決まる…そんな感じかな」

 それは唐突に起こったのだ。
  “え?”男吾は、呆然として、水無月が棒のように倒れるのを信じられない思いで見た。
 “なんだ、俺?今何したんだ?”
 自分の体がどう動いたのか覚えがなかった。確か――そう、確か水無月のアッパーをかわそうとして、身体を右に回転させて、それから、体を自然に落とした。同時にそのまま身体を逆反転させて真下から上に満身の力を込めて蹴りを入れて――
 「そう、これが滝沢の“駒落し”だよ」
 唇の血を手で拭って、水無月は破顔した。男吾はその伝説的な技の名を思い出した。
 「滝沢副将の、あの“駒落し”…?」
 先代空手部の副将、滝沢の「駒落し」。副将でありながら、主将以上の強さを誇り、部を全国大会に導いた彼の一撃必殺の技だった。
 「この技を俺が」
 「そうだ、巴君。君は361人と闘った。その結果が今現れようとしているんだ」
 水無月は楽しくてならないようにしゃべった。
 「長い戦いの末、君の体には無数の技が刻印されたんだ。それが徐々に解放されて君のものになろうとしている。これからがお楽しみだよ。君はもっともっと強くなろうとしているんだ――さぁ、続けよう、来いっ!」
 それは不思議な闘いだった。
 男吾が五日間の稽古で受けた数々の過去の技術が知らず知らずのうちに身体から甦ってくるのだ。相手の気配に反応して、思いもよらない動きを体が勝手に行っていた。もはや作戦もテクニックも必要なく、純粋な闘志だけで全身の筋肉が意志を持ち、自在に動かしていた。空間に身体が融合する不思議な快感だけがあった。
 体は次々と勇者の技を発現していた。浦田の「逆回転投げ」で水無月を背面に投げ飛ばし、宗司の「水平断ち」が男吾の腹を切り裂いた。寺井の「鎌鼬」は、紅野の「斬手刀」に音を立てて交わった。
 男吾の体の変化とともに、水無月もまた、同じように身体を変えていった。手抜きをしていたのではない。正確に「男吾」を反映するがゆえに、水無月は「男吾」として次第に強力になっていったのだ。

 「それで、最後は?」
 操がじれったそうに事の結末を知りたがった。
 「最後は――それが一番覚えがないんだ」
 男吾は包帯の巻かれた腕を組んで思い出そうと首をかしげた。が、無意味だったようだ。
 「大体、あん時はもう、お互い相手の姿の確認も出来なかった状態だったしな」
 幾度となく顔面を殴られた男吾の目蓋は腫れ上がり、瞳を覆い隠していた。額から幾条にも流れる血が左眼の視界を奪っていた。今の男吾には、何一つ見えなかった。相手の気配だけが感じられた。
 恐らく水無月も同じ状態であることは間違いなかった。次々に出現する強力な技のしのぎを削り、急速にレベルアップを繰り返したこの戦闘は、彼ら二人の、生物として個体を維持する力を著しく奪っていた。
 多分、次で決まると、男吾は予感した。次の一撃で勝敗は決する、そう直感した時、彼の体は動いたのだ。
 男吾は眼の前にいる――もはや見えはしないのだが――相手の身体の横に伸びている気配の右側の一部(右腕のことだ)の先端をつかんだ。そして左足で大地を強く蹴り、高く跳んだ。相手の手を捻じりながらその頭上までのびあがり、大きく右足で弧を描くように斜めに、敵の肩から背面に全重力をかけて蹴りを入れた――
 「あんた、それ…」
 操はポカンと口を開いた。
 「“風斬”じゃないの?草薙先輩の超人的な技よ」
 「へぇ、そっかぁ…」
 男吾は興味なさそうに、ぼんやりと受け答えした。
 「あれが“風斬”だったのか」
 「なに、のんきなこと言ってんの!」男吾の素っ気なさに、逆に操が怒り出した。
 「なんで、あんたが風斬を使えるのよ?!あれは、他の誰にも」
 「知らねぇよ」
 男吾はうるさそうに、うんざりと返答した。
 「何でああやって、体が動いたのか俺にも分からねンだ」
 風斬。相手の身体を固定しつつ、防御しようのない背面に跳んで全重力と遠心力をかけて強打する、半ば重力を無視したこの技は、美奈神中に五年前所属していた空手部、草薙の駆使した伝説的な秘技だった。彼一人しか使いこなせないため、継承者のない幻の術とさえ伝えられている。
 「でりゃあああああああ!」
 男吾は、最後の最後にこの技を繰り出した。男吾そのものと化した水無月の身体もまた、何かを直感したのだろう。男吾は技に入る瞬間、自分の右腕をつかまれるのを感じた。しかし、それをはらう気も体力も既になかった。このまま技をかけ、動けなくなった方が負けるだけだ、宙を舞いながら男吾は瞬間、考えた。そして右足で大きく円を描き、見えない敵の背に打ちつけた。
 ボグッという肉を砕ける音を男吾は確かに聞いた。それは己の背面に骨を断つ激痛を感じるのと同時だった。二人が同時に放った「重ね風斬」に、二人の男吾の意識は一瞬にして断ち切られた。

 「いつまで倒れてたか覚えがない。けど、俺が目を覚ました時、水無月さんも横たわってたんだ」
 全身鉛を身につけたように重く、動かない。指一本動かすと、ピシピシと強張った筋肉が音を立てた。それでも何とか男吾は起き上がった。顔を触れると、乾いた血糊が砕けて粉になり、手のひらにへばりついた。そこで初めて、横に倒れている水無月を発見したのだった。
 「男吾が先に気がついたって事は、あんたの勝ちって事?」
 男吾は答えなかった。
 「水無月さんは倒れたまま、笑っていたよ」
 操は、淡々と語る男吾の横顔を見ていた。
 「もしかしたら、俺よりも先に気がついてたのかな。でもそんなの、どうでもいいことさ。水無月さんは笑っていた。いつものように微笑んでいたよ」
 そう言って男吾は口を閉ざした。操もしばらく黙っていたが、話題を変えて話しかけた。
 「そうそう、男吾。水無月先輩が柔道部に戻ったってことは、知ってる?」
 「ああ。火山さんから昨日聞いた」
 水無月は、男吾との試合の後、正式に空手部に再入部した。火山は喜んでこれを受け入れた。ここに「水無月部」は消滅、空手部には強力なレギュラーが一人増えたことになる。
 「三年生だから、もう何ヶ月しか部活動はできないけど、火山さんは大喜びだったな」
 「水無月先輩、再入部の挨拶の時に、こんなことを言ってたわ」
 操は、昨日の部活時間の始めに行われた水無月の挨拶を思い出しながら口に出した。
 「強さとは何か、何のために強くなりたいと思うのか、それをもう一度考え直すために戻ってきたんです…って。やっぱり、真面目な人よねぇ。でもさ」
 そこで操は首をかしげた。
 「でも、何故今頃になって戻る気になったのかしら?」
 やはり男吾は答えなかったが、水無月は火山と男吾の二人だけに、本当の思いをそっと告白していた。
 「でも、楽しみよ、あたし!」
 操は喜びに武者震いしていた。
 「あんな凄い人が入部してくるんですもの。明日からの練習が楽しみだわぁ!」
 そんな操を男吾は呆れた表情で見やった。
 「おいおい、まだ水無月さん、俺と同じでまだ完治してないんだぞ」
 「でも、すごいじゃない、水無月先輩。あたしの「分身」みたいにあたしの技をコピーしちゃったのよ!自分と闘える、こんな経験ざらにないわよ」
 あの柔道部全滅事件の直前、操たちは水無月の稽古を受けていた。その時操たちは水無月の力を知った。皆は大喜びで自分自身と試合をしたということらしい。過去の選手との練習にも華が咲いたと聞いている。
 「鬼塚先輩、ベッドの上でため息ばかりついてこぼしてたって話よ。水無月が欲しい、やっぱあいつは欲しかったなぁ、って」
 ケラケラと操は明るい笑い声を立てた。男吾の目に、彼女の他意のない笑顔が、水無月の照れた微笑みに重なった。
 「あの時、僕は円谷君らに稽古をつけていた。公に出るのは僕の趣味じゃないが、正直あの稽古はここ最近で一番楽しかったな。本当に楽しかった」
 水無月さんはそう語った。柔道部での稽古を語った時の彼は楽しそうだった。
 「円谷君や巴君達に会えて、本当に僕は楽しかったよ」
 水無月は再入部の意志を火山と男吾に伝えにきた時、少し顔を赤く紅潮させ、照れながらこう告白したのだ。
 「柔道部のみんなと稽古した時、みんな楽しそうだったよ。僕も本当に楽しかった。僕に稽古をつけてくれと巴君が頼み込んだときも嬉しかったよ。僕みたいなのと真剣に勝負してくれるみんなと一緒にいて、僕は楽しかった。毎日決闘に明け暮れている時も、水無月部で闘っている時も、僕はいつも一人だったから。僕はずうっと一人で、一人と闘っているだけだったんだ」
 水無月は俯いて、小さな声で二人に聞いた。
 「…そんな僕が、今更戻ってもいいんだろうか?」
 「大丈夫だ、水無月。安心して戻ってこい」
 火山は、即座にそう答えた。
 「みんな、お前が戻ってくるのをずっと待ってたんだ。それにさ…」
 火山は水無月にニッと笑いかけた。
 「お前は、俺の友達じゃねぇか!」
 顔を上げて水無月は笑った。彼の微笑みは、泣き笑いのように見えた――
 「あんただって、明日から道場に戻るのよ、今度の地区大会に向けてね!」
 「冗談じゃねーぞ!こんな包帯だらけで何しよってんだ!」
 「文句があったら、水無月先輩を見習いなさい!」
 やがて、始業を知らせるサイレンが鳴った。二人は言い合いながら楽しそうに、校舎に向かって走り出した。

(後編 完)