novel

「雨の日曜日に…」 (作・はなぶさえいいち)
 

第1章

 「あ〜〜、ちっくしょおおお!」
轟く罵声に、知子は振り上げた竹刀を止め、声のする玄関のほうを向いた。
 「なんだぁ、男吾の奴。大声出して、落ちつかないったらありやしない」
竹刀を脇に直す知子の額には細かい汗の粒が浮き出ていた。それを手拭いで拭き取る。
 「せっかくの日曜日、精神鍛練にもってこいの朝だってのに……」
知子はそう呟き、窓の外に目をやった。巴家の外に、静かに雨は降り注いでいた。 今日は雨の日曜日、男吾の長い日曜日の始まりだった。

男吾はまだ、天に向かって吠えていた。
 「今日、雨じゃねーかよ!どうして今日に限って雨なんだよ!」
 「梅雨は雨と決まったもんだ」
男吾が振り返ると、そこには竹刀を手に、知子が立っていた。
 「今日に限らず、雨の日が多い。そんなことぐらい分かるだろうが、男吾」
 「でも今日は晴れて欲しかったんだ!」
 「なんで?何か訳でもあるのか?」
知子の質問に、男吾が憤然といい返した。
 「大事な決闘があるんだ」
 「はあ?」
 「前から決まっていた重大な決闘の日なんだよ!」
男吾が興奮して話す内容を要約すると――
―― 6年2組には、通称「ケンカ四天王」と恐れられる四人組がいる。男吾として前々から決着をつけたいと思っていたが、ようやく念願かなって本日6月8日、日曜日、午後2時、四天王の一人、堂本と決戦を行うこととなったのだ。ところが今日はあいにくの雨模様――
 「雨の中でケンカしなきゃいけないのかよ!」
 「お前、そんなことで憤ってたわけ?」
知子は呆れて声をあげた。
 「当たり前だろ!雨になりゃ、闘い方も変更しなきゃな、キックも難しくなるし…」
 「ばかばかしい」知子はきびすを返すと、そのままスタスタと道場に戻りだした。
 「一人で勝手にわめいてな。バカな弟持つと、こっちが迷惑するよ」
 「何だと、姉ちゃん!いくら姉ちゃんでも言っていいことと悪いことがあるぞ!」
 「なに玄関で騒いでるんだい!」
台所の水飛沫の音が止み、安子が顔を覗かせた。
 「さっきはお天道さま相手、今度はお姉ちゃん相手かい…少しは静かにできないの」
安子は洗い物で濡れた手を前掛けで拭いながら、「ちょうどいい、男吾。外行って郵便物とっといで」
 「郵便物?」
 「昨日は忙しくて、ポストからまだ取り込んでなかったのさ。溜まってるはずだから頼むよ」
そう男吾に命じて、安子はまた台所に引っ込む。再び洗い物の音が始まった。男吾はしぶしぶ返事をした。
 「分かったよ、母ちゃん…ったく、人使い荒いんだから」
 「何か言った?!」
 「い、いや――へ〜〜い、巴男吾、只今から郵便物の回収に行ってまいりまーーす!」

 下駄で派手に水飛沫を立てながら、家の門まで走り、ポストを開く。意外にたくさんの中身が乱雑に詰め込んであった。それを掴むと水に濡れないように手で被いながら玄関に辿り着いた。その多くはダイレクトメールの類だった。
 「うちみたく貧乏な家に送ったって、何の意味もねぇよなあ…」
ブツブツ言いながら、男吾は中身の品定めを始めた。
 「ン?」
ふと、妙な違和感が男吾を捕え、一枚の葉書に手を止めた。何気なく文面に目を通す。
 「はいけい、おくだひめこさま…宛先は奥田――お姫の宛の葉書が、何でうちのポストに入ってるんだ?」
男吾は改めて、葉書を確認した。住所も巴家の隣のものが記されている。
“なんだよ、郵便のおっちゃん。隣と間違えて配達したんだな。…ふぅん、後からお姫のポストに戻しとくか”
 「こら、男吾!何やってんの?」
飛び上がって男吾が振り返ると、いつからそこにいたのか安子が男吾を見下ろしていた。
 「わ!母ちゃん、び、びっくりさせんなよ、急に後ろから声かけて」
 「…手紙持ってきたなら、さっさと渡す!忙しいんだから」
 「分かったよ、母ちゃん。ほら!」
安子の差し出す手に、郵便物の束を渡すと、男吾はそのまま自分の部屋に戻った。そしてズボンの後ろのポケットを慎重に探る。出てきたのは、一枚の葉書だった。
 「別に隠れて見るつもりもなかったけど、母ちゃんが驚かすんで、つい持ってきちまったな…」
言い訳しながら、いつしか男吾の目は葉書の文面に向いていた。
 「え〜っと、はいけい、おくだひめこさま。しばらくぶりでした、と。えらく丁寧な手紙だな」

――拝啓、奥田姫子様。しばらくぶりでした。お元気でしょうか。あなたが転校されてもう一年以上になり、ふとあなたのことを思い出して懐かしくなることもあります。…… ところで、急なお手紙で驚かれたことと思います。失礼なことではありますが、至急お会いして相談したいことが出来たのです。何分事情が事情なので、詳しくここで書くことができません。どうかよろしくお願いいたします。 お会いしたい日、場所は――

 「朝陽台の見晴らし館前、6月8日、午後2時にお待ちしています。―か」
男吾は葉書を表に返して見る。
 「差出人の名前は、高見沢誠、か。どっかで聞いたような名前だな…ン?それより、ちょっと待てよ」
男吾はもう一度葉書の文面を改めた。
 「お会いしたい日、場所は、朝陽台の見晴らし館前、6月8日、午後2時って、今日のことじゃねぇか?!」
男吾は反射的に時計に目をやった。今は午前10時半。まだ間に合う。
男吾は葉書を掴むと、そのまま階段を駆け降り玄関に走った。

 「母ちゃん!ちょっと出かけてくらぁ!」
今度は内職の針と仕立て物を両手に安子が現われた。
 「ちょっとって、父ちゃんみたいな言い方してどこへ行くのさ?」
 「お姫んとこ」
 「お姫ちゃんなら、お隣りじゃないか」
 「ところがそうじゃないんだな」と男吾は急いで足を靴に突っ込みながら言った。
 「今お姫、図書館に行ってるはずだから」
明日は雨みたいだから、図書館か美術館に行こうかな―という姫子の言葉が男吾の脳裏に甦った。
 「男吾くんも一緒に行かない?他に寄るところもあるし、男吾くんが来てくれると嬉しいんだけど…」
何か含みのあるような姫子の誘いを、あっさりと男吾は断った。
 「悪いな。俺は明日、ケンカの予約が入ってんだ」
 「雨が降るのに、ケンカするの?男吾くんもあきないわねぇ」
呆れる姫子に男吾は胸を張って答えた。
 「だから言ったろ、俺のシュミは喰うこと、寝ること、それからケンカってな」
 「そうだったわね、フフ…」
傘を手に、男吾は雨の中に飛び出した。走りながら、ズボンのポケットを改めて確かめる。葉書はしっかり収まっていた。
 「よしっ!」
男吾は更にダッシュを加速した。

第2章

 「まったく、あんたって本当、ヤバン人なんだから!」
 「うるせぇな、お玉」
玉美の苦情に、男吾はぷいと横を向いた。
 「うるさいじゃないよ、男吾」
と、中島ミユキも玉美に加勢した。
 「図書館の中で大声出したら皆に迷惑だってことぐらい、常識でしょ!」
 「そ、そんなことぐらい知ってるよ――」
男吾は、鼻を掻いてとぼけてみせた。実はそんなことも知らなかったのだが。
 「だから、今は場内放送かけてもらったんじゃねぇか!だいたいお前らだってそれ聞きつけて、ここにやってき…」
 「ちょっと!大きな声をださない!」
玉美とミユキが同時に声を上げ、慌てて自分の口を手で押さえた。
静かであるべき図書館カウンター前でのこの騒動は、男吾が図書館に到着して第一にやらかしたことに始まったのだ……

 「おひめ――――!!どぉこだぁぁぁ〜〜〜!!!」
 場内に響き渡る大声に玉美たちが飛び上がったのは、その声の大きさだけではなかった。
ざわめく館内で、顔をしかめて横に座っている玉美の肩をつついてミユキが囁いた。
 「玉ちゃん、あのバカでかい声って、もしかして―」
即座に玉美が応じた。
 「男吾のバカね」
二人は大急ぎで騒ぎの張本人を黙らせるべく走ったのだが、しかし時は既に遅く、男吾は事務のお姉さんと一悶着起こしている真っ最中だった。
 「館内では静粛に願います!大声は皆さんの迷惑になりますからね!」
職員に怒られている男吾を発見した二人は、速やかに「他人」になってその場を立ち去った。
 「人探し?それなら館内放送で呼び出してあげるから、大声で館内を回ったりしないでね。で、何て名前の子を探してるの?」
一通り、男吾に説明した後で事務のお姉さんはそう提案した。男吾は頭を掻きながらお願いすることにした。
 「なるほど、オクダヒメコさんね。ちょっと待っててくれる?」
そう言って彼女は奥の部屋に入っていった。やがて姫子の名前が場内を流れ出した。
“お姫、来てるかな…”
ボンヤリと天井の模様を眺めながら、男吾は高見沢という名前を思い出していた―

 「男吾くん、おめでと!」
 そう言って姫子が男吾の肩を叩いたのは、あの男吾委員長当選の日のことだった。
 「あたしだって、委員長はまだやったことないもん、すごいわよ!」
嬉しいのを必死で我慢していた男吾の心を代弁するように姫子ははしゃいでいた。
 「たいしたこたぁねぇよ…ところで、お姫。お前は委員長の経験なしか?」
話をそらすように男吾は聞いた。「うん」と姫子が頷いた。
 「あたしは副委員長まで。委員長はいつも高見沢くんだったの」
 「高見沢?」
 「ああ、ごめんなさい。前の学校の同級生でね−」
高見沢誠。姫子が前に在籍していた川崎小学校の同級生で成績優秀、スポーツ万能。性格は柔和にして温厚な優等生だったという。
 「へぇ、お姫以上の奴っているんだな…」
少し面白くなさそうに男吾が呟き、チラリと姫子の方を見ると、彼女は何か思い出して遠くをみているようだった。その姿が、男吾の心に微かな痛みのようなものを残していた。 その痛みが今また甦りつつあった。 “前の学校じゃ嫌なことがあったみたいだけど、仲のよかった奴だって、そりゃいたよな…”

 「ねぇ、お兄ちゃん」
 「え」
 物思いに沈む男吾を不意に現実に引き戻したのは、さっきから彼のズボンを引っ張っていた小さな力だった。
 「お兄ちゃん、姫子姉ちゃん探してるの?」
 「な…んだ?」
男吾が声のする下を向くと、そこには4歳くらいの小さな女の子が男吾のズボンの裾を掴んで立っている。
 「お兄ちゃん、姫子姉ちゃん探してるの?」
男吾の顔を見つめたまま、また少女は繰り返した。なんだ、ガキかと男吾は息をついた。
 「なんか用かい、おチビ…ン?姫子姉ちゃんって…お姫知ってんのか?」
 「うん」少女はこくりとあどけなく頷く。
 「髪が長くて」
 「うん」
 「こぉんな三ヶ月みたいな髪飾りつけて」
 「うん」
また少女が頷くのを見て、思わず男吾はガッツポーズをした。
 「やったぜ、大当たり!で、おチビ、お姫はどこにいるんだ?」
 「おチビじゃないよ、優子だもん!」
プッとむくれる彼女を男吾は慌ててあやした。
 「ごめんごめん。じゃ優子ちゃん、姫子姉ちゃんはどこにいるのか知ってる?」
 「もういないよ」
 「へっ?」
 「いつも日曜日にはね、姫子姉ちゃん図書館に来てあたしと遊んでくれるんだ」 と優子は、はしゃぎながら言った。
 「今日もね、あたしと遊んでくれて、絵本読んでくれたの。でもさっき、じゃあねって言って帰っちゃった!」
 「あ、男吾くん」アナウンスから戻った職員のお姉さんが男吾に声をかけた。
 「奥田さん、来たかしら?」
男吾はかぶりを振った。彼女はふうっと溜め息をついて、
 「これだけ待っても来ないとすると、もう退館されたんじゃないかしら。ごめんなさいね、見つけてあげられなくて」
少し気の毒そうにそう男吾に告げると、彼女は仕事場に戻っていく。それをただ呆然と見送る男吾に、優子が自慢げに顔を紅潮させた。
 「だから、あたしが言った通りでしょ!」
 「なんてこった…」
 「こら、男吾!」
ようやくほとぼりが冷めたと見て、玉美とミユキは男吾の前に現われた。そして冒頭の言葉となったのだ。
 「なんで男吾が図書館に来てるのよ!」「雨降ってるの、そのせい?」「マンガは置いてないよっ」
 「大きなお世話だよ!」
二人の勝手な言動に、男吾が一喝した。
 「アナウンス聞いてただろ?ちょっとお姫を探してるんだ」
 「お姫ちゃんを?あんた、ストーカーでも始めたの?」
 「ちがうよ!ちょっとした用事があってさ――」
男吾は無意識にズボンのポケットを押さえた。そして逆に聞き返す。
 「…それより、お前らが何でここにいるんだ?」
 「あたし達は、宿題しに来たに決まってるじゃない!日曜日には結構、図書館使うのよね。ミユキやお姫ちゃん達と」
と、玉美はそこで言葉を切って男吾を探るように睨みつけた。
 「…あんた、まさか宿題見せてもらいに来たんじゃないでしょうね?」
 「バ、バカ言ってんじゃねえよ」
もっともそう言いながら、夜には姫子に見せてもらうつもりだった。
 「とにかく、お姫はいないのかよ」
 「あ、そうそう。それを伝えにカウンターまで来たのよね」と、玉美は手を打った。
 「姫ちゃん、これから美術館に行くって。ついさっき、10分ぐらい前に出ていったのよ」
 「10分前か?」
 「そう」
玉美の答えに、男吾はちょっと思案して聞き返した。「で、お前らは?」
 「?あたしたち?」
あたしたちがどうかしたの、と問う玉美に、男吾が言った。
 「どうして、お姫と一緒に行かねんだ。友達だろうが!」
だって、と玉美が反論した。「あたし達、宿題しにここへ来たんだし、姫ちゃんはいろいろ別の用事があるみたいだったから―」
 「一人で行かせることないだろ。友達がいのねえ奴等だな!」
そう吐き捨てて男吾は、出口に走っていった。(友達か…)――川崎小学校―高見沢誠――そんな言葉が男吾の胸をよぎった。
そんな男吾を唖然として見送りながら、玉美はポツリとこぼした。
 「だって、姫ちゃん、何かついてこられるの、嫌がってたみたいだったもの…」
男吾は図書館の壁時計を見上げた。時計の針は午前11時30分をわずかに越えている。
男吾が出口で傘を捜していると、目の前に立っている小さな影に気付いた。顔を上げると、そこには優子が立っていた。
 「何だ、優子ちゃんか…お姫の行く先が分かったよ。ありがとな」
 「ねえ、お兄ちゃん」
優子はちょっと躊躇った後にこう言った。
 「お兄ちゃん、ダンゴでしょ?」
 「え?」
少女は繰り返した。「お兄ちゃん、ダンゴでしょ?」
男吾は驚いて聞き返した。
 「何で俺の名前知ってんだ…ははん、それもお姫から聞いたか?」
 「うん、姫子姉ちゃんよく言ってたもん」
優子は嬉しそうに報告した。
 「いっつもね、あたしが言うの、お姉ちゃんは誰と一緒に来てるのって。あたしはお母さんと一緒だもん。するとね、お姉ちゃんはこう言うの、友達と一緒に来てるのって。でも…」
と、優子は言葉を切って続けた。
 「本当はダンゴくんが一緒に来てくれるともっともっと楽しいんだけどなって。お兄ちゃん、ダンゴでしょ?変なお名前だからすぐ分かっちゃった。優子すごいでしょ?」
男吾は黙って優子の言葉を聞いていた。そして彼女の前にしゃがんで初めて彼女の顔をじっと見た。
 「すごいな、優子ちゃんは…チビなんて言ってごめんな、ありがとう。…よし!じゃ今度の日曜日には兄ちゃんも来るからさ、待っててくれよ」
そう言って優子の髪を撫ぜた。優子は嬉しそうに微笑んだ。
 「うん、約束だよ!指切りゲンマン!」
 「指切った!」
優子と指切りして、男吾は再び雨の中を駆け出した。

 「遅いな、お姫…」
 男吾は、美術館の出口でイライラと待ち続けていた。そして受付けの中の時計を見やった。午後12時40分になっていた。リミットはあと1時間半も無い。だが、ズボンのポケットには依然葉書が入ったままだ。
 「俺のケンカの予定も午後2時だかんな。早いとここいつをお姫に渡して――」
そのまますぐに決闘場に赴かなくてはならない。その時間も必要だ。
 「せめてスケジュールがずれてくれればよかったんだよな」
もっとも今の男吾は、さらに大きな心配事を抱えていた。それがチクチクと男吾の胸を刺していた。男吾は溜め息をつき、呟いた。
 「お姫の『連れの男の子』って誰だ?」
今から30分前。
美術館の受付嬢の前で、男吾は姫子の容姿の説明に悪戦苦闘していた。
 「三ヶ月の奴、何て言ったっけな、“注射”だったっけ?そういうのを髪に付けて」
 「…カチューシャ、ね」
吹き出しそうになって、慌てて彼女は謝った。
 「ごめんなさい、笑ったりして…うん、多分キミの言ってる子は、奥田さんのお嬢さんね。よく来てるから覚えがあるわ」
 「そう、それそれ!で、お姫ここに来てるんですか?」
 「確かさっき入っていったわね。お友達みたいな男の子と一緒に」
 「男の子、ですか?」
 「ええ。よく一緒に来てたようね」
彼女はあっさり答えた。さすがに彼女も目の前の男の子の動揺までは見抜けなかったようだった。
 「とにかくここは入り口だから、出口は直接見えないし、退館したかどうかまでは、ちょっと分からないわね」
そう彼女は残念そうに男吾に伝えた。美術館では、原則アナウンスはできないということだった。結局入館して探すしかないのだが、それには入場料が必要だった。勿論男吾にそんな持ち合わせはない。
 「分かりました」と、男吾は憮然として答えた。
 「俺、出口で待ってますから」
どの道、ここで姫子を見つけなければアウトなのだ。
…そう宣言してから、もうかなりの時間が経過している。外では依然雨足が衰えず、ガラス窓には絶え間なく雨垂れが流れ続けていた。
―しかし、ここで男吾が出会ったのは姫子ではなく、意外な人物だったのだ。
 「男吾、何でこんなとこにいんだ?」
その声に振り返った男吾は、驚いたようにその声の持ち主の名前を口にした。
 「ケンジ!」

 「お前にこんなシュミがあったたぁなあ」
 男吾はニヤニヤしながらケンジの肩を小突いた。だがケンジの方はむしろ誇らしげに胸を張ってみせる。
 「こんなシュミってことないだろ。前にもお前に言ったじゃんかよ。俺は一流ホテルのウェイターになりたいんだって。一流のウェイターたるもの、ウツクシイもの、優れたものを見分ける眼が必要なんだってよ。そもそも芸術というものはだ、何の理屈もなく純粋に美しいと思う心を持つことであって……」
 「わあった、わあった!」
際限なく続きそうなケンジの講釈を振り切って、男吾はできるだけさりげなく話題を転じた。
 「それよりさ、ケンジ。ここらでお姫、見かけなかったか?」
 「お姫ちゃん?」
 「い、いや俺が会いたいんじゃなくて」
ケンジのオウム返しに急いで男吾は弁明した。
 「どうしてもお姫に伝えなきゃいけないことがあってさ、それも俺のことじゃなくて、お姫の友達の―」
 「…誰もそんなこと聞いてない」
男吾は赤くなって沈黙した。
ケンジはそんな男吾に、 「まあ、いいや。どんな用事か知らないけど」 と前置きして、こう告げた。
 「お姫ちゃんなら、もう帰ったぜ」
 「帰ったあ?」
男吾が素っ頓狂な声を上げた。
 「何で、ケンジがそんなこと知ってるんだ」
 「だってさっきまで俺、姫ちゃんと一緒だったもん」
 「じゃあ、まさか」と全身から力が抜けるような思いで男吾が聞いた。「お姫の連れの男の子って…」
 「多分、俺のことなんじゃない?」
――静かな美術館の館内をパッカーンという高いビンタの音が鳴り響いた。
“痛ってえなぁ、まったく。よく誤解されるんだよ、姫ちゃんの連れの男の子だって…”とケンジは痛む頬を手で押さえながら説明を始めた。
“よくお父さんと一緒に来てたみたいだな。けど、一人で来てた方のが多かったかな。自前で美術館には俺もよく来てたけど、姫ちゃんの持ってる招待券で入れてもらったことも結構あったよ。『二人用の招待券だから一人でも二人でも同じなの。もったいないからケンジくん、一緒に入ろ』ってさ。けど何かさみしそうだったよな…”
 「今日もそうやって二人で入ったんだ。姫ちゃんはこれから用があるから帰るって言ったけど、俺はもう少し見ていたいからって、もう30分くらい前のことさ」
 「30分前?」
男吾はそれを聞いて歯噛みした。また行き違いだ。
 「何で先に帰しちゃったんだよ、無理矢理にでも引き止めてくれれば」
 「ムチャクチャ言うなよ、男吾」
男吾は大きく肩を落とし、うなだれた。頼みの綱は、ここでプツリとたち切られたのだ。
そんな男吾の様子を見て、ちょっと考えてケンジは付け加えた。
 「そういや…窓の向こうから姫ちゃんが商店街に向かうのを見たと思うぜ。そっち方面に行ったかもな。まだたいして時間も経ってないし、急げば見つかるかもしれない」
 「…そっか、ありがとな、ケンジ。さっきは張り飛ばしたりして悪かったな」
男吾はケンジに頭を下げた。かまわねぇよ、とケンジは手を振った。
 「姫ちゃんがらみじゃ、しょうがないからな」
そう言ってケンジはおどけて見せた。今はそんなケンジの心遣いが男吾には有り難かった。
 「じゃな、ケンジ。先急ぐから」
男吾は勢いをつけて外に出た。その背中をケンジの声が追いかけてきた。
 「だんごー!お姫ちゃん見つかるといいな。ケンカもがんばれよー!それからさー!」
 「なんだー、ケンジー?!」
 「―今度からはお前を招待するように、お姫ちゃんに伝えとくぜー!!」
 「ありがとよ、ケンジー!」
後ろに手を振りながら、男吾は苦笑していた。
“誘ってくれてもなぁ、俺サッパリ分かんないんだよな、ゲージツって。お姫それ知ってるから、誘わないんだよな…”

第3章

 「あれ、ヒデキ?こんなとこで何やってんだ?」
 「お前こそ何やってんだ、男吾」カッパを上に上げ、雨粒を払いながら、逆にヒデキの方が聞き返した。
黒いカッパを着込んで町を自転車で疾走するヒデキに男吾が出会ったのは、既に午後1時半を回った頃だった。
商店街で姫子のよりそうな場所を片っ端から探しまわった挙げ句、それらはことごとく徒労に終わっていた。 疲労が男吾の体中にべったりと貼りついていた。気力もぐんと落ち込んでいる。傘をさす腕にも力が入らないのが自分でも分かった。そんな状態だったから、交差点で信号待ちをしている男吾の横に静かに自転車が止まったとき、初めそれがヒデキであることに気づきもしなかった。加えてヒデキの物腰は、いつもと違ってしっかりと落ち着いていたためでもあった。
 「俺はお姫を―」と言いかけて、男吾は結局止めにした。
 「それよりどしたんだ、ヒデキ。日曜日だってのにカッパ着て自転車に乗って。塾でもなさそうだしな」
男吾の質問に、ヒデキはちょっと雨粒のかかった鼻先をこすって見せた。
 「何って、見りゃ分かるだろ、家の手伝いに決まってんじゃないか」
そういえばそっかと、男吾はすぐに合点した。
 「そういや、もう大丈夫なのか?お前んちの母ちゃん」
 「まあな」ヒデキは頬をゆるめた。
 「体調はだいたい戻ったみたいだけどさ、まだまだ大事を取って休んでたほうが本当はいいんだ。けど家の中は火の車だしさ。簡単に休むわけにゃいかない」
 「安くてうまい、がモットーのおおもり食堂だかんな」
 「ああ、だからこうして日曜日も店の手伝いってわけさ。おかげで塾も止めなくちゃいけなくなったけど」
 「この方がいいだろ?」
 「もち、こっちの方が何倍も楽しいや!」
ヒデキは大笑いした。男吾も笑った。しばらく二人は雨の中で笑いあっていた。
やがて信号は赤から青に変った。ヒデキの足が自転車のペダルにかかる。じゃ、まだいろいろ行く所があるから、と走り出すヒデキの自転車に男吾は大声で呼びかけた。
 「母ちゃんが完全復活したら、また喰いにいくぜえ、ヒデキ!もう、酢うどんなんて喰わせんじゃねーぞっ!」
オウ、とヒデキは雨の中を駆けながらこぶしを上げた。
 「もうツケは無効だかんな、今度からはキッチリ現金持って喰いにこいよー!」
そしてヒデキの姿は雑踏の中に消えていった。姫子のことをついに聞くことはなかったが、何かいい気分が男吾の中に残っていた。
 しばらく男吾はそのままそこに佇んでいた。そしてズボンのポケットから葉書を取り出した。雨の中を駆け回っていたが、シミひとつ付いてはいない。それを手にしたまま、男吾はゆっくり歩き出した。
しばらくして男吾は足を止め、目の前にあるスーパーの正面にかかってる時計を見上げた。午後1時50分。もう姫子を探し出すのは不可能だった。
“お姫、ごめんな。結局お前にこれを渡せなかったよ。昔の友達に会いたかったろうな…”
男吾の脳裏に、玉美やミユキ、ケンジにヒデキの姿が浮かんだ。
男吾は放心したようにその葉書を見つめていたが、ふと何か見つけたようにじっと手にしたものに見入っていた。やがて描かれている内容を口に出して読み始めた。
 「朝陽台の見晴らし館前…」
その部分だけを呪文のように繰り返し口にした。そして今度は葉書をひっくり返し、「ある一点」だけを凝視した。
しばらくの後、顔を上げた男吾の眼には奇妙な表情が浮かんでいた。そしてそれを振り切るように、男吾はある場所に向かって走り出した。

 「おい、本当にこんな手で4組の奥田って奴は来るのか?」
 見晴らし館のひさしの中で、いつまでも止まない雨の曇天を眺めていた6年2組ケンカ四天王の一人、剛力は隣で座っているやさ男に声をかけた。
 「来るよ、間違いなくさ」
やさ男―6年2組の菊池は、自身たっぷりにそう断言し歯を見せた。そうしていても神経質そうに見えるのがこの男の特徴だった。
 「奥田さんの過去については、しっかり調査済みだ。性格から家庭環境、それに前の学校の友人関係までね。その一人から相談の手紙が来たんだ。奥田さんの性格なら断るはずがない」
 「へっ、ストーカーみたいだな、お前」
 「綿密な計画性、と言ってもらいたいな。恋愛にはこれくらいの駆け引きが必要なんだよ」
気のさした剛力の言葉も意に介さず、菊池はとくとくと続けた。
 「そのかわり、といっちゃあ何だけど、君らの成績アップは保証しよう。見つからないカンニング法なんていくらでもあるさ」
 「――分かったよ。で、この場所で俺達悪漢が登場するってシナリオだよな?そろそろ隠れてなくていいのか」
 「ああ、そうだな。しかし―」と、菊池は不審な表情を浮かべた。
 「巴男吾の方はいいのか?本当に上手くいってるんだろうな?」
見晴らし館の前に茂る雑草を足で踏みならしていた四天王の一人、熊田がその問いに答えた。
 「大丈夫だ。男吾には四天王の堂本をあてがってある。今頃遠くで男吾は堂本とやりあってるよ。あのケンカバカがそれをすっぽかすはずはない。こんな雨の中でもさ―」
そう言って、熊田はくっくと含み笑いをした。
 「しかし四天王三人も必要なのか?俺等一人だけでも充分だ」
 「あまり小人数でも困るんだよ」
菊池はイライラと神経質に唸った。
 「少ない悪漢を倒しても、僕の真の力が発揮できないじゃないか。多数を倒してこそ強い僕を演出できるんだ」
 「体育の成績1、のお前の真の力ね」
四天王最後の一人、伊吹が壁にもたれながら面倒くさそうに呟いた。「笑わせるぜ」
 「いいから、僕の言う通りにやってくれ!」
菊池はとうとうわめきだした。
 「やってくれたら、毎日の小遣いだって何とかする、だから―」
 「分かった、分かった」
突然キレ始めた菊池を剛力は手で制し、ちらと腕時計を見て首をかしげた。
 「おい…もう2時を少し回ったぜ。そろそろ来てもおかしくないか」
 「もう来てるぜ、とっくにな」
その声に、三人と一人は一斉に振り返った。
そこには――雑草が茂り荒れ放題の見晴らし館の周りにそびえる木立の間に雨を避けるように一人の影が立っていた。だがその顔は木々の影に隠れて確認できない。
 「お前ら、6年2組のケンカ四天王だな」
その影は彼等にゆっくり近づきながら、口を切った。
 「悪いが、堂本の奴はもう倒したぜ。あっちはすっぽかしといても良かったが、それじゃ気分が収まらねえ…。なるほど、四天王ともあろう者がこんなアルバイトをしてたってわけか」
次第に向かってくる影を凝視していた剛力は、ようやくその影の正体に気づき、信じられないような気持ちで、その男の名を口にした。
 「お前は…巴、男吾?!」
 「何?!」他の四天王もその言葉に思わず立ち上がった。菊池だけが事態の急変についてゆけず、呆然と突っ立っていた。
 「そういうことか…」
男吾は一定の距離まで四天王に近づき、そこで足を止めた。誰もが言葉を失っていた。
 「お姫の旧友の名を騙って、ここに呼び出す。もちろん高見沢は何も知らない。勝手に名前を利用されただけだ。そこにガラの悪い四天王が「偶然」お姫にからんでくる仕掛けか…そこにまた「偶然」通りかかった菊池がそのスバラしい力で悪漢を投げ飛ばす、とこういう作戦だな。お姫としても、助けられた恩義を感じるだろうし、それでお姫の心を縛ることもできる。その場にいなかった高見沢に対する不信感までお姫の心に植えつけることができるって寸法か。 だが、ここで邪魔になる人間が一人いる。それが俺だ。何かとお姫の横にいるオジャマ虫が万一、一緒にやってきたら計画は台無しだ。こいつには計画当日その時間に別の場所にいてもらわなきゃならない。で、このケンカバカには、堂本をお相手させとけばシッポ振ってやってくるだろうと―こういうわけだ。たいした戦略家だよ、菊池。ただ一点…」
と、一呼吸置いて男吾がニヤリと笑う。壮絶な笑みだった。
 「絶対成功不可能って点を除けばな!!」
 「男吾よ――」
ガクガクと震える菊池に傍らに立っていた剛力が男吾に静かに問いかけた。
 「なぜ、事前にそれが読めた?」
 「これだよ」
と、男吾はズボンから葉書を取出した。
 「お会いしたい場所は、朝陽台の見晴らし館前…何かやたら人の目につかない場所だってこたぁ、この町に住む誰もが承知のことさ。わざわざ何でこんな場所を選ぶんだ?逆に言えば、この町以外の人間には指定できない場所なんだ。それに…」
男吾は葉書を表に返す。そこには宛先の住所と「消印」が記入されていた。
 「消印、見ろよ…この町の消印なんだよ。お姫の前いた川崎小学校は3つ4つ向こうの遠い町だ。そこに住んでる人間が出した葉書に何でこの町の消印が付いてんだ?答えはひとつ、この葉書は、この町のことをよく知ってる人間がこの町で投函したってことさ」
 「なるほどな。たいした推理だ。最後にもう一つだけ、聞いていいか?」
剛力の言葉は穏やかだったが、徐々に両者の間に静かな緊張感が高まっていくのを男吾は感じていた。他の二人の四天王も戦闘態勢に入りつつある。じりじりと男吾を取り囲むように音もなく動いていた。剛力の問いに答えた瞬間、闘いが開始されることは明らかだった。
 「何でその葉書、お前が持っている?」
 「それがおっかしな話でさ―」男吾も周囲に全力で神経を集中させながら、ゆっくりと答えを返す。
 「今日に限って、郵便のおっちゃんがお姫宛の葉書を隣の俺ンちに間違えて入れちまったみたいでな。お陰で、お姫はこいつを読まずに済んだってわけだ。まさに郵便のおっちゃんさまさま、お天道さんの思し召しってわけだ、が―」
男吾は一度言葉を切って、そして咆哮した。
 「今日のお天道さんも俺も、最高に機嫌が悪いんだ!!」
次の瞬間、四天王三人は一斉に輪の中に取り囲んだ男吾に飛びかかった。
 「うおおおおおおおおおおおお!!!」
男吾は雄叫びをあげ、三方からの敵の猛襲を迎え撃つ。
 「雨の日曜日の鬱憤、ここで晴らさせてもらうぜ!!」

 「あてててて…」
 男吾は右腕の激しい痛みにうめき声をあげた。剛力の強烈なハイキックの直撃のためだった。
今、男吾は雨の中をずぶぬれになって帰途についていた。もちろん無傷ではない。体中が無数の傷で覆われ、身体を動かすごとに節々からは絶え間なく激痛が走った。歩くだけでやっとだった。靴も片方を失い、上着は原形をなくすほどに裂けていた。
 「もうこれも使い物にならねえや」
男吾は杖がわりに持っていた傘のスイッチを入れた。バン、という音とともに裂けた布地が翻り、その反動で鉄のつるの一部がピンと音をたて、どこへともなく飛んでいった。
 「また母ちゃんに叱られるな」
しかし、歩いていられるだけまだマシだったろう。恐らく四天王三人と一人はいまだ雨に打たれて地面に転がっているはずだった。菊池の顔を,泥の中にねじ込んだのを憶えている。
 「人の思い出を汚すようなゲスが,お姫に近づくんじゃねぇ!」
ふと違和感を感じて、男吾はポケットを探る。
そこにはまだ、あの葉書があった。
 何か長いこと忘れていたものを思い出すように男吾はしばらくそれを見つめていたが、やがて無表情のまま、それを静かにそして丹念に二つに破り、さらに細かな紙片に裂き、バラまいた。紙は風に舞い、水溜まりに沈んでいった。 それを見届けた男吾の顔にようやく表情が戻ってきた。
“もうこれで、お姫を探す理由もなくなっちまったわけか”
雨に打たれながら、男吾は苦笑した。
傷ついた足を引き摺りながら、男吾は今日一日を思い出していた。宿題をしに図書館にやってきた玉美とミユキ。ゲイジュツとはと語るケンジ。店の手伝いに町を走るヒデキ。
 「マンガは置いてないよっ」
 「雨降ってるの、そのせい?」
 「芸術というものはだ、何の理屈もなく純粋に美しいと思う心を」
 「お姫ちゃん見つかるといいな」
 「こっちの方が何倍も楽しいや!」
“何してたんだろ、俺” 男吾はひとりごちた。雨の伝う頬に、苦い微笑みが浮かんだ。
“雨の日曜日に…”
雨はいつまでも降り続いていた。

第4章

 ようやく我が家の手前に着いた時、男吾は最後の意外な人物と遭遇することになった。 その人物は背中を大きく傘で隠していて、初め男吾には誰なのか分からなかった。しかし巴家に入る瞬間見せたその長い黒髪と横顔に、男吾は驚きの声を上げた。
 「お姫!」
男吾は体中の痛みと戦いながら急いで巴家に向かった。
 「男吾くん、もう帰ってますか?」
男吾がようやく門に辿り着いた時、そういう姫子の声が聞こえた。
 「ごめんねぇ、お姫ちゃん」安子が答える声がそれに続く。
 「悪いわねぇ。何度も来てくれて。男吾のバカ、まだ帰ってこないんだよ。どこで何してるのやら」
姫子は心配そうにうつむいた。
 「でも、男吾くん、あたしに何か用事があって探しに来てくれたんですよね。玉ちゃんやケンジくん達は、男吾くんがあたしを探してたって言ってるし…」
 「ハッハハ、気にするこたぁないよ」 と、安子は姫子を慰めるように、笑った。
 「どうせ男吾のことだから、そのうち用件忘れて、予定通りケンカに行っちまったんだよ」
 「母ちゃん、いくら何でもそりゃひどい言い草だぜ」
 「ありゃ!」「男吾くん!」
その声に振り返った二人の目の前には、雨に濡れて立っている男吾がいた。
 「男吾くん!」
血相を変えて、姫子が男吾に飛びついた。
 「どうしたの、男吾くん?!体中傷だらけだし、服もボロボロ…雨でズブ濡れじゃない!」
姫子は、男吾のフラフラの身体を自分が濡れるのも構わずしっかりと抱きとめた。姫子の身体の柔らかさに、男吾はドキマギした。
 「だ、だから言ったろ…」男吾は照れ隠しのように笑ってみせた。
 「今日の予定は、決闘だって」
 「待っててね、男吾くん」
姫子はすばやく自分のバックを掴んでその中身を取り出した。それはハンカチとバンソウコウと包帯だった。
 「お前、いつもそんなの持ってんの?」
 「いいから、男吾くん!ジッとしてて」
ハンカチで雨を拭い取り、小さな傷口にオキシフルを塗ってバンソウコウを貼った。手際よく腕に包帯が巻かれていく。
 「ひどい傷…」手当てを続けながら、姫子は呟いた。「男吾くんにこんなひどい怪我をさせるなんて、何てひどい人…」
姫子は流れる涙を手の甲で拭っていた。それが男吾には嬉しかった。 やがて応急処置が終わり、姫子は男吾の包帯が巻かれた腕を軽く叩いた。
 「はいっ、これでオッケーよ。…ところで、男吾くん」
 「ん?」
 「あたしを追っかけてきた用事って、なんだったの?」
男吾はちょっとの間考えて、玉美のセリフを思い出した。
 「…明日の宿題,見せてもらおうと思ってさ」
 「ほんとに?」
いぶかしむ姫子に、
 「ああ、本当さ。だけど俺のことより…」と、男吾を話をそらした。
 「お姫、結局今日は美術館の後、どこに行ってたんだ?」
姫子は、ウンと頷いた。
 「それを伝えたくて、さっきから男吾くんちで待ってたんじゃない!」

 「はい、これ」
 姫子は一冊の本を男吾に手渡した。そのまま男吾は、黙ってそれを受け取る。
二人は巴家の居間に座っていた。男吾の部屋はとても他人に見せられるようなものではなく、取りあえず安子の提案で、連れてこられたのだった。
 「お姫、これは?」
男吾の問いに、エヘヘ、といたずらっぽく姫子が笑った。
 「あたしのアルバムよ」
 「アルバム…」
 「そうよ。実はね…」と姫子は少し顔を赤くして照れながら説明を始めた。
 「今日美術館に言った後、写真屋さんに行ってたんだ。今まであったアルバムの写真を全部、リプリントしてもらってたんだけど、やっと今日、それが完成したの。でも、やっぱりちょっと恥ずかしいから、みんなから離れて別行動で取りにいってたんだけどね」
“なるほどな”と男吾はようやく合点がいった。
“それで図書館でお玉達と別れて、美術館も早々に出てったわけか。ケンジの言ってた商店街の方向、いくら探しても見つからないお姫の姿…俺も、まさか写真屋までは覗かなかったからな”
 「これがその、りぷりんとして作り直したアルバムか?」
男吾が手に持ったアルバムを掲げてみせると、姫子はちょっと困ったように首を振った。
 「いや、そのアルバムは違うの。男吾くんの持ってるのはもう1冊、『少し特別』なアルバムなのよ」 「特別?」
男吾のオウム返しに、
 「取りあえず、見てもらえば分かるわ」
そう姫子は応じた。男吾は少し探るように姫子に聞いた。
 「…見てもいいんだな?」
 「――うん」
その返事に、男吾は手にしたアルバムを1ページ目から開いた。
それを開いて中を見た瞬間、男吾は絶句した。
 「お姫、これは…」
確かにそれはアルバムだった。なによりそこには写真しか貼られていない。そういう意味では紛れもないアルバムなのだが―。
そこに写っているのは、男吾だった。笑っている男吾、怒鳴っている男吾、机の上で口を開けて眠っている男吾、全力で走る男吾、猛然と給食を食べている男吾…全ての写真に男吾が写っていた。
他に写っている者もいるにはいる。それもほとんど姫子だった。男吾と二人で仲良く並んで写っている写真、遠足のときに何人かのグループで撮った写真、クリスマス・パーティで小さなケーキの前で座っている二人の写真――
 「あたしと男吾くんだけのアルバムだったの」
姫子はさすがに恥ずかしいのか、下を俯いたままだった。
 「男吾くん、気づいてなかったと思うんだけど、あたしが今の学校に来た初めの頃、なんだか男吾くんの写真を撮るのが楽しくて、気づかれないように男吾くんのことカメラに収めてたのよね。…なんかあたしって、ストーカーみたい」
男吾は呆然として自分ばかりが写っているアルバムをペラペラとめくっていたが、ある一つの写真のページに手をとめ、横に座る姫子に話しかけた。
 「お姫。これ、この写真」
男吾はそれが姫子に見えるように向けて写真を指差し、そして言った。
 「これ…こんな写真、あるはずないぞ」
そう男吾が聞いた写真は、確かにその通りのものだった。
そこに写っていたのは、二人で横に並んでいる、一見ごく普通の男吾と姫子の姿で、それ自体奇妙でも何でもなかった。だが、明らかに二人で写っているはずのない写真だったのだ。
なぜなら、写っている二人の姿はどう見ても幼な子のものなのだ。小学生1年生ぐらいだろうか、男吾は子供用の羽織袴姿で緊張した面持ちで、その横に姫子が着物を着て澄ました顔をしていた。過去に二人が偶然どこかで出会っていて偶然写真に写ったのか?そんな可能性は万に一つもないはずだった。
 「それはね、男吾くん…」
姫子は言いにくそうな顔をしてその真相を述べた。
 「あたしが作った合成写真なのよ。今だと、パソコンとか使えば二枚の写真をくっつけたり、素人でもかなり精密な合成写真が作れるようになってるの。やってみるとこれも結構おもしろくて」
 「ふうん…」
男吾はさらにページをめくる。数こそ少ないが、所々に同じような合成写真が貼られていた。小学3年生らしい男吾と姫子がプールで泳いでいた。幼稚園児の二人が仲良く走っている。あるはずのなかった思い出。それは微笑ましく、そして何か悲しかった。 男吾は思った。菊池という男の取った手段。そこにはもういない、過去の思い出を利用してまで姫子の心を操ろうとする気持ち。戯れに、あるはずのない思い出を心の癒しのようについ作ってしまった姫子の想い…その二つはまったく正反対のものだったが、一年前転校してきたばかりの姫子がどんなにさみしかったのか,男吾は今胸をつかれるような思いで感じていた。
 「でもね」
姫子はふっと男吾の方に笑いかけた。
 「もう、こんなアルバム、しまっちゃおうと思うの」
 「え…」
その言葉に男吾は姫子の顔をじっと見つめた。そこには屈託のない涼しげな姫子の微笑みがあった。
 「こんなもの、やっぱり自己満足だもんね。本当の思い出はひとつだけしかないの。小学1年生の時に、あたしは男吾くんに会ってはいなかった、4年生の時、男吾くんの横にあたしはいなかった、それが本当。二人は別々のところにいたんだから―。だけど…」
そう言葉を切って姫子は続けた。
 「これからはちがうもの。玉ちゃんがいてミユキちゃんがいて、ケンジくんにヒデキくんがいる。それに――いつも男吾くんがそばにいてくれるもの。ひとつしかない思い出を大事にしなくちゃ、って…」
 「お姫…」
 「それでね、男吾くん」
そう言って、姫子は自分の後ろに隠してあったもう一冊のアルバムを男吾の前に掲げてみせた。思わず姫子は、顔をほころばせていた。
 「ジャーン!こっちが本当のアルバムでぇす!」
姫子は嬉しそうにそれを開いてみせた。その中には、男吾だけではない、さまざまな友達の顔が、姿が写っていた。玉美も、ミユキも、ケンジも、ヒデキも、モミアゲウマも、小塚のおっちゃんも、修一郎も、男吾の両親も、知子姉ちゃんも、姫子の両親も、そしておそらくは川崎小学の面々も、高見沢も。
 「でね、お願いがあるの。男吾くん」
姫子は改めて「特別のアルバム」を手に持った。
 「ここに写ってる男吾くんの写真を、本当のアルバムの方に移すつもりなんだ。だから本人に見てもらって、特別かっこ良く写ってる男吾くんを探してもらおうと思って!」
“そうか…そうだったんだな、俺”
男吾は思い出していた。足をひきずりながら考えていたことを。
“何してたんだろ、俺”
“雨の日曜日に…” 傷つき、そう呟いた自分にいま、こう答えることができた。
“俺はお姫の――”
――玉美やミユキ、ケンジにヒデキ、いろんな友達や先生、そして高見沢や川崎小学のやつら、そのかんばせに映る姫子の微笑み――
“――お姫の思い出を全部、守ってやりたかったんだ…”
『男吾のアルバム』を開いてあれこれと指差している姫子を見ながら、男吾は小さくうなずき、微笑んだ。
“雨の日曜日か…そんなに悪いもんでもないな”
 「ねぇ見て!男吾くん。もう雨が止んでる!」
姫子は声を上げて、空を指差した。雲間から少しづつ光が射している。水溜まりが周りの風景を映しこんでいた。 それを眺める姫子の横顔を横目で見ながら男吾が言った。
 「ところでさ、お姫…」
 「何?」姫子が聞き返した。男吾が続ける。
 「来週の日曜日、一緒に図書館に行こうか?」
 「男吾くん」
 「優子ちゃんに約束したんだ」
男吾は、姫子に笑いかけた。
 「今度は姫子姉ちゃんと一緒に行くって…いいか?」
 「もちろんよ、男吾くん!」
姫子の顔がパッと輝いた。
 「一緒に行こうね、男吾くん!」
 「美術館にも連れていってくれよ、たまに、でいいけど」
 「うん!」
姫子は喜びできらめくようだった。不意に男吾は姫子をとても綺麗だと感じた。
“なあ、ケンジ”
男吾は心の中に友達の名を呼んだ。
“こういうふうにお姫が見えるのも、ゲージツか?”
そんな二人の前には、雨の日曜日を祝福するように、大きな大きな虹が懸っているのだった――。

(完)